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王であるイエス様 [イエス様に学べ!]

 だいぶさぼりましたが、キリストの三職というのの続き、王であるイエス様について、ご紹介したいと思います。

 イエス様の職業の一つに王、というものがあります。私の職業、王様です、という人はなかなかお会いする機会がありませんし、セレブの人ともちょっと違いますので、聖書でいう王様について、ざっとご紹介します。

「キリストが王職を果たされるのは、私たちをご自身に従わせ、治め、守ってくださること、またご自身とわたしたちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです。」ウェストミンスター小教理問答問26答(新教出版1994)

1.イエス様は民の上に立つリーダーです。

 民の中で一番偉い、ということですね。民とはキリスト教会です。教会とは、目に見える組織、というよりも、歴史や地域を越えた、全ての本物のクリスチャンの集まりのことです。その教会のリーダーはイエス様です。イエス様は人々を従わせ、教会を正しい方向へ導いてくださいます。

イエスは~言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」マタイ28:18

 牧師や長老も人間ですから、人間のリーダー、人間の組織は間違い得ます。リーダーが間違うと、団体全体が大変なことになります。リーダーも罪と問題を抱える人間です。また、どんなすぐれたリーダーがいても、人間には従わない心があります。良い、とわかっていても、色々理由をつけて、反抗したくなるのが人間です。

「なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者達は、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。」使徒4:25~26

 しかし、イエス様は違います!上に立つ人間がいくら間違えても、イエス様は、私たち人間が進むべき正しい方向に、私たちを導いてくださるのです!王であるお方なのに、しもべのように、一人一人に仕えられるのです!考えられないようなお方です。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」ピリピ2:6~8

 また、私たちがいくら反抗しようが、私たちを従うように成長させて下さるのです。自分の愛する民の救いのために、十字架にかかってくださったほどの方です。どうして民を見捨てる、なんてできるでしょうか。どれだけ不純物が混入しても、イエス様はそれでも導くお方なのです。

「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。」ヨハネ14:18
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ10:11

 もし人生の道に迷うことがあれば、お祈りしてみてください。イエス様は聞いてくださって、必ず正しい道へ導いてくださいます。

「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」ヨハネ14:14

2.イエス様は民を治めます。

 イエス様は人々を正しく治めます。国が、福祉や警察、公共事業をやるように、イエス様は、強い者の力を、弱い人々のために使わせ、知恵のあるものを自分のためではなく、公益のために使わせ、悪い人をとりしまり、みんなの益がはかられるように、愛を持って仕えあうことを教えます。

「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34

3.イエス様は民を守ります。

 人生は戦いです。人間には、聖書が教える3つの敵があります。

①人間の罪。私たちが神様から離れているゆえに犯す色々な悪い事です。罪は、私たちを、本当の神様や他の人に敵対して歩むようにさせます。

「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」ローマ7:14(人間の始祖アダムが人間全体を罪に売り飛ばしたってことですね。)

②肉体の弱さと死。私たち人間は、誰もが必ず肉体は衰え、病気や怪我に悩まされ、やがて必ず死んでしまいます。偶発的な事故や、自然災害に悩まされます。私たちは弱いものです。

「肉の思いは死であり、~肉の思いは神に対して反抗するものだからです。」ローマ8:6~7

③悪魔。私たち人間を神様から引き離し、罪に陥らせ、弱さのうちに埋没させようとする霊的な力があります。それが悪魔です。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」第一ペテロ5:8~9

 このようなものに人間は本来支配されて過ごすものですが、イエス様は、この中から私たちを救い出してくださいました。イエス様を信じる人は、誰でも救われます。罪や失敗を犯しますが、全てイエス様によって赦されます。また、罪から自由にされ、負けない力が与えられます。成長させられます。

 また、一度は必ず死を経験するでしょう。しかしそれは、イエス様を信じる人にとって、最後の試練にしかなりません。イエス様によって、永遠の命が与えられるのです。この希望は、生きているうちから私たちを死から解放します。生きているうちは、色々な肉体的な弱さや、困難を経験するでしょう。しかし、もうそれは意味をなさないのです。死んだら天国が待っているのです。

 悪魔は私たちを一生懸命誘惑するでしょう。しかし、それはすでに私たちがイエス様のもとにいってしまったからであって、もうその支配化には置かれていません。今、私たちを治めているのは、イエス様です。私たちには、悪魔にさえ打ち勝つ力イエス様ご自身が与えられているのです。

 イエス様はこのように民を色々な戦いの中で守ってくださいます。気付くところで、気付かないところで、イエス様は大いに私たちを守ってくださっているのです。私たちが天国に入るまで、完全に守ってくださいます。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。艱難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。~しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ8:35~39

4.イエス様は敵を征服する征服者です。
 征服者というと、キリスト教の歴史の悪い歴史を思い浮かべるかもしれませんが、そこには触れませんで、聖書が教えているイエス様について扱います。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」ヘブル2:14~15

 イエス様は征服者です。しかし、それは霊的な意味であって、実際に銃火器によって戦争しろ、とか教唆している訳では全くありません。イエス様は先ほどあげた敵から守って下さるだけでなく、その敵から人々を救出するお方です。

「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」ローマ5:10

 全てのクリスチャン、全ての歴史上、世界中のキリスト教会は、その結果です。人間は本来生まれながらにして神様から離れ、堕落した、天国にいけない存在であります。クリスチャンの家に生まれようが、立派な人物の家に生まれようが、神様の特別な恵みによらなければ、本人が素のままで天国に行ける人などいません。人間誰でも救われるには、イエス様を信じる信仰が必要なのです。

 しかし、イエス様は、あらゆる方法を通して、人々に働き、イエス様を信じる信仰に導いて下さいます。イエス様の十字架によって、誰でも罪が赦され、天国に入ることができるのです。どんな過去の罪も、どんな現在の状況も、どんな弱さ、どんな醜さも、イエス様にぬぐうことができない罪はありません。ご自分の完全な歩みで私たちを覆ってくださるのです。私たちが犯した全ての罰は、イエス様が十字架で身代わりに負ってくださいました。だから信じるだけで、この救いは私たちのものなのです。

 イエス様はこれからも人々の心を征服するでしょう。人々を永遠の命に勝ち取るでしょう。死から命に人々を移し、罪の奴隷から、赦しの自由へ、サタンの束縛から、イエス様の国民へ、人々をご自身のもとに集めてくださるでしょう。

 王であられるイエス様に、栄光が永遠にありますように!

「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストゆえに、ただ神に感謝します。」ローマ7:23~25a
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神の国 [イエス様に学べ!]

 私達は平和な日本に暮らしています。何気なく当たり前のように過ごしてしまいますが、これは当然の出来事ではありません。私自身戦争を知らない世代でありますが、戦争を経験された世代の方々が、いかなる苦難を乗り越えて、この時代を築き上げてくださったことか、想像に難くありません。私達は、この「平和」というかけがえのない財産を、次の世代に、また、他の国にも受け継がせていかなければなりません。

 宗教がきっかけの戦争というのは、ほとんどの場合、建前です。本当に突き詰めれば、エゴや利得が渦巻いているものです。確かに悪が横行し、その時正義が必要であり、弱者を守るため警察が武装するように、時には戦うことも必要です。逆に悪が権力を握る国において、反乱を起こることもあるでしょう。色々なことが複雑に絡みあう、難しい時代に私達は生きています。

 イエス様の弟子達や、多くの群衆は、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルを、イエス様が独立させてくださる事を期待しました。武装蜂起し、反乱を起こし、悪の権力から、神の国を独立させるため、ダビデ王の子孫がやってきたかのように、聖書の預言を解釈したのです。イエス様が復活されたとき、ある弟子は、このように尋ねました。

 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」使徒1:6

 この弟子は、イエス様が王様になって、革命を起こし、世界を治めることを期待したようです。しかし、イエス様は、武力によって、ご自分の国をもたらそうとはされませんでした。イエス様は答えます。

 「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒1:7~8

 むしろイエス様は、愛によって、謙遜さによって、赦しによって、自分を犠牲にすることによって、人々を救い、神の国をもたらすために来られました。そして、そのメッセージを伝える、信じた人々が、イエス様の証人となる、という方法で、神の国の実現を求めたのです。

 その後、このメッセージは、聖霊によって取り扱われた弟子達によって、ローマ中で証言されました。ローマ帝国中に、このメッセージは伝わりました。迫害されていたのに、この愛のメッセージが、すごい勢いで人々の心を変えていったのです。聖霊が働いて、人々を愛と喜びに作り変えて行ったのです。その後、ローマ帝国自体がキリスト教を国教と認めるまでになりました。(その後色々と逆の問題が出てきますが)それで、教会は、今も聖書のメッセージを伝えている、という訳です。

 内村鑑三という人が、「二つのJが私の心を捉えている」と言いました。一つはJESUSのJ、もう一つはJAPANのJ。私達は、神の国がこの国にも来ることを期待しています。

 是非あなたもキリストの証人に!

 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」イザヤ9:6~7
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世紀末(を通り過ぎた)リーダー論イエス様 [イエス様に学べ!]

 日本のリーダー達を見ていると、リーダーというものは、大変なんだな、と思います。
 ああ言えばこう言われ、こう言えばああ言われ、色々な狭間で大事な決断を下していかなければなりません。

 また、リーダーの決断で、物事がうまく運ぶか、というと、それもそういうものでもなく、ついていく人々のポテンシャルにも左右される訳です。色々な要因あっての結果ですが、人知の及ばない事まで要求されてしまうので、本当に大変だと思います。結局のところ、自分のベストを尽くしつつですが、最後は神様に丸投げするしかないと思うこともしばしば・・・。リーダーの皆様お疲れ様です!ぜひがんばってください!

リーダーになる:
 知恵・能力・経験・人間関係等、総合的に考えて、リーダーにするべき人をリーダーにすることが大事です。リーダーは仕えるため、その組織全体の目的と利益のために選ばれます。イエス様も言われました。「人の子(イエス様)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10:45、仕える心、大事です!しかし、リーダーにしておきながら、すぐにひきずりおろしたくなるのが人間です。リーダーをやるのは大変なので、ならない方が人生平和に過ごせるでしょう・・・リーダーを求めた人たちは、長い目で見ながら、応援してあげることが大事です。

自分のベストを尽くす:
 リーダーになっちゃったら、一生懸命がんばってください。人間あってのリーダーですから、周りの人に耳を傾け、意見を大事にしたらよいでしょう。でも、同時に、知識や経験から、それに反する決断をしなければならないこともあるでしょう。リーダーになって、適当にやっている人はいないと思います。が、第三者の視点があることも、助けになるでしょう。間違いうる単独リーダー一人より、リーダーグループが必要です。長老教会は、リーダーグループを形成して、リーダー一人の判断で、大きな事を決断しないようになっています。人間間違いうるからです・・・

ミスった判断:
 ベストを尽くしていても、あれは間違った判断だった、と思うことはあるでしょう。そこは反省して、次は繰り返さないようにすることが大事なんじゃないでしょうか。同時に、結果がすぐにでなくても、考えた上での判断であれば、間違った、と、あまり性急に判断するのもいかがなものかと思います。結果が出るまで時間はかかるものです。

 人類の祖、アダムは、禁断の木の実を食べちゃって、神様に問い詰められたとき、「こいつが悪い」と人のせいにしました。(創世記3章)人のせいにする人の子孫ですから、人のせいにしたがるのが人間です・・・リーダーの人は、周りのせいにしないで、責任は自分がとりましょう。

自分の能力の及ばないところ:
 ベストを尽くし、ミスを修正しつつも、最後には、どうしようもない能力差や、結果、偶発的なことがおこります。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主からくる。」結果は神様からくる、ということですね。そこは、神様に祈るしかありません。文句は神様に言ってくださればよいかと。

結果を受け止め、分析し、生かす:
 結果は結果ですから、次に生かしましょう。あまり後悔しても、ベストを尽くしたのですから、しょうがありません。バッシングとか、いちいち気にしないことです。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」マタイ10:28

 イエス様はまさにリーダーの模範でした。神であられる方が、人間となって仕えるために来られ、人々に仕えました。愛と正義で人を導いたお方でした。しかし、最後には、熱狂的にイエス様を迎えた人間達の手で、十字架にかけられてしまいます。公に活動を開始されて、3年後の出来事でした。

 イエス様は、罪を犯して堕落した人類全体の救い主として、ご自身が、自分の命を支払って、責任をとってくださいました。そればかりか、よみがえられて、「主」として、世界の人々にあがめられています。今も私達の失敗の責任を取ってくださいます。その後の本人の心境が、イザヤ書に書かれています。

「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼が担う。」イザヤ53:11

 人間に必要なのは、完全なリーダーです。イエス様は、私達の真のリーダーです。全ての責任をとってくださる、その方の下で、ベストを尽くしつつ、失敗は悔い改めつつ、反省を生かしつつ、歩んでいけたら、楽になりますよ!
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祭司について [イエス様に学べ!]

 誰かにかばってもらった、という経験を皆さんもお持ちかも知れません。
 自分が何かやらかしてしまった時、他の人が自分を弁護してくれたら、本当にありがたいと思います。
 私自身、高校時代、色々とやらかしてしまったのですが、担任の先生に色々とかばってもらって、無事卒業までたどり着けました。

 聖書には、「祭司」という職業が出てきます。
 本来人間は罪を犯しているため、正義の神様から罰を受けなければなりませんでした。しかし、神様は、人間を憐れみ、救うために、いけにえの規定を定め、それを通して赦しを恵みを与える約束をして下さったのです。
 祭司は、人間の代表者として、人間がしでかしてしまった罪のため、代わっていけにえをささげ、神様に赦しを乞う役割を持っていました。

 イエス様はまさに祭司でした。
 人間の代表者として、人間がしでかしてしまった罪のため、動物のいけにえではなく、完全な罪のない人間である、自分自身を十字架によっておささげになり、神様に人々の赦しを乞うたのです。

神様
 ↑
イエス様
 ↑
人間

 イエス様は、自分を十字架にかけた人々のために、また、全ての人々のために、十字架の上で、「父よ、彼らを御赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34と、神様に祈りました。
神様はこの方を通して、罪ある人間を救おうと定められたのです。
それゆえに、このイエス様の十字架は自分のためだ、と信じる人は、誰でも罪を赦されるのです。

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救う事がおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」ヘブル7:14~15

 私たちも、イエス様のように、他の人のためにとりなすことができます。家族のため、友達のため、町のため、世界のため、祈りをささげるとき、神様は聞いて下さいます。自分の手の届かないような、大きな事も、祈る事ができます。そして、それは、最善の答えを下さる神様の道を見る事になります!是非お祈りしてみて下さい!

イエス様が教えて下さった祈り:主の祈り

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン
マタイ6:9~13
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預言者について [イエス様に学べ!]

「主を恐れることは、知識の初めである。」箴言1:7a 

「神様を知る」という事は、人間にとって大事である、と聖書は教えます。

 神様は人間の創造主として、いかに生きるべきか、歴史の中で、預言者達を通して、教えてこられました。

 前回イエス・キリストが持っておられる三つの役割について、書きましたが、今回はその一つ、預言者について書きたいと思います。

 預言者の「よ」は預金通帳の「預」という事で、神様から「言」葉を「預」かった「者」、と書きます。要するに、神様のメッセージを、人々に伝える仕事なのであります。

 聖書は、神様が直接書いたのではなく、神様が、ご自分の霊である聖霊によって、この預言者達を通して語られた事を、まとめた本なのです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので」第二テモテ3:16

 預言者は、神様からこれらのメッセージを託されて、人々にあらゆる方法で、伝えました。例をあげると、劇のような事(預言者イザヤの裸生活、イザヤ20:2)や、奇跡が伴う事(預言者エリヤ雨を降らせない等、第一列王記17章等)等。

 ある時は、よく伝わって、人々が悔い改めて、神様と共に歩むようになりました(ニネベの町の人々の悔い改め、ヨナ3:5)。ある時は、伝わったのに、人々は猛反対して、警告通りの裁きが起こりました(悪いマナセ王とバビロン捕囚、第二歴代誌33:10~11)。

 要するに、神様は預言者を通して、色々な方法で、メッセージを伝えたのです。

  神様
   ↓
 預言者
   ↓
  人間

 人間は、預言者を通して、神様がどんな方か、知りました。しかし、預言者は、人間ですので、いくら神様の事を上手に説明しようとしても、限界があります。彼ら自身が神様ではない訳ですし、示されていることも一部分です。伝えている本人すら、部分的な訳ですから、聞いている方は、より不確かだった事でしょう。

 しかし、神であるイエス様が、人間となってこの世にこられたので、人間は、神様がどんな方か、何を願っておられるのか、どのように歩むべきか、イエス様を通して、はっきりとわかるようになりました。イエス様こそ、完全な預言者であり、イエス様を通して、人々は、神様がどんな方であるか、はっきり知る事ができたのです。

 「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。~ことばは人となって私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた一人子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。~いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられる一人子の神が、神を説き明かされたのである。」ヨハネ1:1、14、18

 神様は昔、預言者達を通して語られ、今それは聖書として、私たちに与えられています。後の時代になると、救い主イエス様となって地上に来られ、十字架の愛を示して下さいました。そして、現在、三日後によみがえられたイエス様は、今も生きておられ、聖霊によって、聖書を解き明かし、私たちに神の正義と愛を教えて下さいます。祈る時、私たちを導いて下さいます。

 「神は、むかし父祖たちに、預言者達を通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界をつくられました。御子は神の永遠の輝き、また神の本質の完全な現れであり、そのちからある御言葉によって万物を保っておられます。また、罪の聖めをなしとげて、すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました。」ヘブル1:1~3

 と、いうことで、今日私たちがイエス様から学ぶべきことは、「神様のメッセージを伝えよう!」です。

 神様を知る、という事は、人生にとって、大事です!神様のメッセージ、イエス様の愛を、周りの人にも教えてあげましょう。今日からあなたも預言者!


今日の誤変換:「滞納者の右の座に疲れました」 
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キリストの三職 [イエス様に学べ!]

神であり、人であられる、イエス様は、神と人との仲介者として、三つの役割を果たして下さっています。

1.預言者

2.祭司

3.王

の三つです。と言っても、今どきそんな職業全く見かけません。

インターネット等のアンケートや登録作業等で、職業を選ぶ欄があります。
自分はキリスト教会の伝道師という立場ですが、一度も出てきた事がありません。

団体職員・・・宗教団体・・・でも、一つの会計で5人以上有する団体職員ではないし・・・
自営業・・・雰囲気としてはこちらが限りなく近いのですが、そうでもなく・・・
その他・・・かな・・・と、その他に一票投じております。

ましてや、預言者・祭司・王など、聞いた事もありません。

どんな職業なんでしょう?

預言者というのは、予言者ではなく、預言者でありまして、
「よ」が「預金通帳」の「預」なんですね。「言」葉を「預」かる「者」ということです。
聖書によく登場するのですが、神様から言葉を預かって、人々に伝える仕事をした人の事です。
神様のメッセージを民衆にわかりやすく伝える人だった、という事ですね。

それは、単なる言葉だけだった場合もありますし、演劇のような形を伴った場合もあります。
また、奇跡を伴うような出来事もありました(モーセが海を割る、エリヤが死人を生き返らせる等)。
内容としては、神様の正義や愛を伝えるものだったり、悔い改めを促すものだったり、
未来の予告もありで、裁きと救いのメッセージが、色々な方法で人々に伝えられました。

祭司というのは、「祭」りごとを「司」る職業で、神様を礼拝する人々の代表者として、
色々な儀式に関する事を行いました。民の代表者として祈りといけにえをささげ、
責任を自分の身に負って、神様に民の罪の赦しを請うたのです。

王は、いわゆる王様で、国のトップであります。
国のリーダーとして、国民を治め、外敵から臣民を守り、国内には法律に基づき、
税金を収めさせ、弱い者を助け、強きをくじき、治安を維持したり、福祉を行いました。

検事・弁護士・行政のような感じかもしれません。(?)

検事イエス、弁護士イエス、イエス総理・・・なんか違う気もしますが・・・

次回は一つづつみていきたいと思います。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」
第一テモテ2:5
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クリスチャンとして生きる [イエス様に学べ!]

 クリスチャンがお手本とするのは、やはりイエス様であります。

 カトリックの方では、聖人と呼ばれる、立派な模範的クリスチャンがたくさんいますし、
聖書の中にも立派な人物はたくさん登場しますが、その全ての人も、
まずイエス様ありき、という事で、人間いかに生きるべきか、イエス様に学びましょう。

(プロテスタントに特別な聖人は、いませんが、模範的な方々はたくさんいらっしゃいます。
聖書の中では、全てのクリスチャンが聖徒(聖人)と呼ばれています。)


 イエス様は、神と人間との間に立つ、仲介者であります。

 人間は罪によって、神を捨て、背いて、勝手気ままに生きているので、
本来、神の裁きが下るべき存在であります。

 しかし、神様は、そんな人間を憐れみ、イエス様によって救おうと定められました。
神と人間との仲介者ですから、完全な神であり、完全な人間でなければなりません。

 イエス様は、神の聖霊によって、人間マリヤに宿る、という方法で、
完全な神である方が、完全な人間としてお生まれになったのです。

 そして、完全な人間として、空腹や渇き、疲れを経験されました。
また、痛みや苦しみさえも味わわれ、十字架の上で、死さえも経験されたのです。

 何の罪もないイエス様が、完全な人として、私たちの代わりに罰を受けて下さったので、
ただ信じるだけで赦される事になったのです。

 人々は、十字架にかけられたイエス様に、「お前が神の子なら、そこからおりてこい!」と
罵声を浴びせましたが、本当は降りる事もできたのに、おりずにイエス様は祈りました。

 「父よ。彼らを御赦し下さい。彼らは何をしているのか、自分でもわからないのです。」

 驚くべき祈りです。

 何の罪もない、完全な人間であるイエス様が身代わりになって下さったので、
不完全な罪人が、信じるだけで赦される事になりました。


 また、同時にイエス様は、完全な神であられました。

 自分のためには、いっさいその力を使いませんでしたが、
(断食の時、石をパンに変える(マタイ4:4)など)
人々のためには、喜んで神の力を発揮され、病人を癒し、悪霊を追い出し(マタイ4:23)、
奇跡を行い、罪の赦しを宣言(マタイ9:2)されました。

 また、聞かれた時には、正直に、
ご自分が神の子キリストである事を主張(マタイ26:63~64)されました。

 イエス様は、完全な人、完全な神として、私たち罪人と、(ヨハネ17:21)
神様の間の完全な仲介者として、私達に救いの道を開いて下さったのです。

 私たちの能力や功徳、財産も私たちを救い得ません。
しかし、イエス様が私たちのために命を支払って下さったので、
私たちは、信じるだけで、救われるのです。

 イエス様、ありがとうございます。
 是非皆さんも信じて救われて下さい。

「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えて下さいました。」
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」第二コリント5:18~21抜粋


 で、ここから何を学ぶべきかといいますと、
イエス様が神の子として歩んだように、私たちには、神様の基準が必要です。
神様の基準である聖書をお読みください。
聖書は、私たちへの神様のメッセージです。
キビシイことも、やさしい事も、書いてあります。
両方私たちに必要な言葉です。是非読んでみて下さい。
教会では随時学びもやっていますので、是非お問い合わせください。

また、人としてどう生きるか。祈りつつ生きましょう。
私たちは神様に奇跡のように生かされています。
ですから、神様に感謝するべきですし、イエス様が他の人のために祈られたように、
人の苦しみや、痛みを覚えて、祈るべきです。
また、うらみを持たずに、赦せるように、自分を変えてもらうためにも祈るべきでしょう。
要するに、神様の基準に基づいて生きられるように、
奇跡のように、自分を変えていただけるように。
また、周りの人々を助けてもらえるように、祈って行きたいものです。

聖書と祈りによって、歩んでいきましょう。

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