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礼拝動画配信 [説教]

皆様へ

3月中、こちらで礼拝の様子を配信予定です。
基本的には礼拝出席を勧めますが、健康状態がすぐれない方は、ご無理をなさらずに、こちらをご利用ください。

↓ユーチューブにとびます。

https://bit.ly/32Ap8Dk

↓QRコードです。

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マタイ14:22~36 [説教]

マタイ14:22~36
22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。
35 すると、その地の人々は、イエスと気がついて、付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た。
36 そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。

 私は小学生の頃、プールに行くと、必ず水の上を歩く挑戦をしました。右足が沈む前に右足をあげて、左足が沈む前に左足をあげて、それを素早くやると、いける、と思っていました。結局一度も成功したことがありません。たぶん大学生ぐらいまでは、そろそろできるんじゃないか、と思って、やっていましたね。一緒にやってくれる友達はいたのですが、止めてくれる友達に恵まれなかったんですね。その延長で今日の箇所を読むと、大変な誤解を生むことになりますので、ここらへんでやめておきます。

イエス様は、前回5000人に食べ物を配ったあと、弟子たちを舟に乗りこませ、ガリラヤ湖の対岸に渡らせようとしました。そして群衆を帰し、自分ひとりで祈ろうとされた。23「夕方になったが」というこの箇所の本当の直訳は、「もう時間が遅くなっていたので」で、今までの流れからすると、相当遅い時間になっていたはず。疲労困憊の中、イエス様は神様から力をいただくため、また、帰った人々のため、祈ったのでしょう。

 一方、弟子達は湖を渡ろうとしていたが、向かい風と波に悩まされました。彼らのうち最低4人は、もともとこの湖で魚をとっていた漁師でしたが、それでもどうにもなりません。そして、夜中の3時ごろから明け方6時ごろまで、直訳すると第四の夜回りまで、嵐の中を、舟をこいでいたのです。普通なら2時間くらいでつく距離を、短く見積もっても6時間以上。一日イエス様のお手伝いをし、5000人いた人々に食事を配って、そこから6時間以上嵐の中船を漕いで、弟子達も疲労困憊だったことでしょう。くっそー、イエス様があの時行けってせかしたせいだ!という不満の声も聞こえてきそう。しかし、そこで彼らは驚くべき光景に直面する。

25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。

 当時、漁師の間の言い伝えで、ガリラヤ湖で幽霊を見ると死ぬ、というのがあったようです。それで、弟子たちはもう人生オワターとなったようですね。

しかし、よく見ると、湖の上をやってきたのは、幽霊ではなかった。生身の人間だった。はあ、よかった、ん?あれ?よくなーい!イエス様は真夜中、嵐の中、6キロくらいでしょうか、徒歩で1時間半くらい?嵐の湖の中を歩いてやってきたのでした。服はびちょぬれ、イエス様がイメージ画像通りだったら、長い髪の毛もひげも、暴風と波の中で大変なことになっていたでしょう。そりゃあ幽霊に見えたでしょうよ。でもイエス様は、湖の荒れ模様を見ながらも、陸路を行ったのではなく、あえて湖の上を行ったのでした。

27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

 いや、そんな登場の仕方したら、恐ろしいでしょうよ!っていうか、イエス様の言った通りにやってるのに、えらいことになってますけどー!

 イエス様がこの嵐の中に弟子たちを送り込んだのは意味がある。イエス様は、この嵐の中で、彼らを取り扱おうとされました。弟子たちは、5000人の給食を手伝い、きっと心が燃えたと思う。イエス様の奇跡を見て、お祈りがきかれて、とんでもない恵みを経験した。

でも、その経験の結論は、イエス様を王様にしよう、ということだった。今風にいうと、政治家に推薦しよう、という感じ。でもイエス様は神様で、私達のごはんの心配をするために来たのではない。私達の根本の問題、永遠の死から救い出す、まことの救い主なのです。しかし、すごいことを経験して、調子よく色々なことが順調に進んでいるように見えて、実はその本質を、弟子たちも群衆心理に巻き込まれて、見失う可能性があった。

うまくいっているときには見えないことがある。見ているつもりで、知っているつもりで、実際にはイエス様の望んでおられることを、まったくわかっていない、ということが、この弟子たちのように起こる。

彼らのうち最低4人は漁師だった。ガリラヤ湖のことは、誰よりもよくわかっているはず。彼らの生活の糧を得る職場であり、経験も知識も、能力もあった。しかし嵐の中、彼らの能力も、知識も、経験も、まったく役に立たなくなった。死を身近に感じたでしょう。

イエス様に従うということは、自分の能力や知識や、経験の延長上にはない。もちろん神様は、能力や知識や賜物を用いて下さる。しかし、信仰の道を歩む、ということは、自分の持っているもので切り開いていくものではない。それなら救い主はいらない。イエス様が十字架で死ぬ必要はなかった。能力や知識や賜物も、神様からしてみれば、ある意味どうでもいい。そんなちまちましたものを、神様は、使ってやる義理はない。天国に住んでおられて、すべてをとんでもなく飛び越えて高い神様。違う次元を見せて下さろうとしていることを私たちは知るべき。

28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」「男なら 歩いてみたい 水の上。」

その嵐のど真ん中なのに、イエス様が一緒にいる安心感。ペテロは、私にも歩かせてください、とまで申し出る。調子がいいやつ。でもそれでいいみたい。

29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

私たちもある意味彼に見習うべきでしょう。彼が自分の能力や知識や経験に固執したら、そんなこと言えません。ここは深い所。この波は泳ぐには高すぎる。この風は当分収まりそうにない。それくらいわかったはず。彼の経験からすれば、怖くて沈みそうになるほどの状態だった。しかし、ペテロはイエス様を信じる。そう。その自分の経験の延長線上にはいない方に、今自分はついていっているんだ!ということを、彼は見ていた。イエス様を見て、自分の経験や知識をおいた。そうすると、彼は歩けたのです。最初のうち。

30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。

でもイエス様から目を離すと、沈みかけました。ガリラヤ湖で何度も泳ぎ、嵐に何度もあっているであろうペテロですが、やはりそれでも怖くなるくらいの嵐だったようです。

31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。

「信仰の薄い」というのは、意訳のようで、本来は信仰のない、と訳すべきだそうです。信仰の道を歩む、イエス様に従って生きる、ということは、水の上を歩くことに似ている部分もあるでしょう。イエス様の言葉を聞いて、その言葉に従って、一歩、歩みを進める。でも自分の知識や経験や能力が邪魔をして、恐れを引き起こして、沈みかける。でもそれをイエス様は助け起こしてくださる。イエス様の信仰による歩行訓練。

 私達も幾度となく人生に嵐を迎えることでしょう。イエス様はそんな時、私達に近づいて下さいます。私たちが目を離して沈みかける時もあるでしょう。自分の能力や経験も役に立たず、パニック状態に陥ることもあるでしょう。でもイエス様は、近寄って私達を捕まえて下さる。その中で、私達の信仰は鍛えられる。「確かにあなたは神の子です。」と告白せざるを得なくさせられる。パンがある時には、周りがもてはやしている時には、見えなかった救い主イエス様を、霊的にはっきり示されることになる。

33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。

このイエス様が、私たちの嵐のような人生の中、ともに歩んでくださっている。そのことを覚えて、この方の声、聖書の御言葉に耳を傾け、霊の目をイエス様に向け、たびたび心に持ち上がる不信仰に揺られるときもありながら、イエス様に支えていただきましょう。確かにあなたは神の子です、と告白することになるでしょう!

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マタイ14:13~21 [説教]

マタイ14:13~21 「イエス様食堂」
13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
14 イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。
15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。

しっくりこないニュース
不況のあおりを受けて、大企業が経営破たんです。アンパンマンでおなじみのジャムおじさんが経営するパン工場が先ほど倒産しました。負債総額は46億円で、町の人に無料でパンを配りまくるという無謀な経営が原因とみられております。この影響で新しいアンパンが作れないため、アンパンマンは顔のない状態で生きていかなければならず、それは、アンパンマンではなく、もはや単なるマンです。

 元ネタは浅越ゴエさんという方らしいのですが、ユーチューブでやっていました。当たり前な感じで、すごくしっくりくるニュースです。でも、今日のニュース、本当にしっくり来ません。なんだそりゃ!ということが起きています。

ここらへんで大人数を収容できる施設を調べてみました。千葉マリンフィールド30082人、フクダ電子アリーナ18500人、幕張イベントホール9000人。今日の箇所でイエス様の所に押し寄せた人々は、実に大人の男だけで5000人。女性や子供達を含めると、その何倍かの、相当数の人々がイエス様にパンを食べされてもらって、しかもみんなおなか一杯になったあげく、さらに余った、というのです。ラーメン屋さんのM君によると、丸一日働いて、300食出たら、ボーナスが出るそうです。イエス様食堂、男だけで5000っておかしいでしょ?その様子をみて行きましょう。

多くの人々が、イエス様に病気を癒してもらうため、集まりました。イエス様は、神様なので、奇跡で病気を治すことができたのです。この時点でしっくり来ない人もいるかもしれませんが、一切無視して見ていきましょう。当時は病気に対して、適切な治療がある時代ではないので、イエス様が人々を癒した事実は、人々に大きな衝撃を与えました。イエス様の癒しは、まさに神様ご自身であることの証明でした。

イエス様の憐れみと癒し
 イエス様の癒しは日暮れまで続きました。15節「夕方になった」とありますが、直訳すると「時間はすでに過ぎていた」となります。これは、通常の夕食の時間を過ぎていることを指すそうです。暗くなってきて、弟子達もお腹がすいたでしょうし、イエス様のことも心配だし、周りにお店もないし、人々の事も心配して、彼らはイエス様に進言します。

「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させて下さい。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせて下さい。」

 実に適切、かつ具体的な提案です。しかし、イエス様は、そんな弟子達のファインプレーを全く無視するような、つっこみを弟子達に入れています。

「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

もはやつっこみなのか、ぼけなのか、リアクションに困りますね。幕張メッセもフクアリもほぼ満席なんですけど!さあ、弟子たちは、これをボケと受け止めて「なんでやねん」とつっこむのか。それともイエス様流のジョークと受け止めて、ではイエス様、予算一万タラント下さい。とボケるのか!

「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」

ひろったー!弟子達またもやファインプレー!ありのまま!あるがまま!そうなんです、イエス様は神様なのです。イエス様の前に、自分達の現状を、ありのまま伝えたのです。いや、どうしようもありませんよ。1万人以上いたであろう人々を前に、あなたがたで何か食べる物を上げなさい。って、いじめですか?いえ、これ信仰のチャレンジですよ。イエス様の何かやらかそうとしておられるサインを、きっと弟子たちはわかったのですね。まったくしっくりこないやりとりですが。

それにしても、満席になっている幕張メッセかフクアリにパンを5つと魚2匹持って行ってみましょう。余りにも無謀です。パン一個が巨大だった、とか、魚が15m級の中型巨人並み(進撃の巨人)だった訳ではありません。パンと魚というのは、今のてりやきマックセットとか、ビッグマックセットのような、当時ごくごく一般的な、お弁当セットだったようです。パンは15cm×1.5cmくらいの丸くて平べったいもの、魚は大きな魚ではなく、塩漬けにした小魚、アンチョビのようなものでしょうか、そんなものだったようです。

イエス様は、それを受け取って、祝福されました。パンを祝福したのではなく、パンのゆえに父なる神様を祝福した、感謝したのです。ユダヤ社会において、この祝福の祈りは、家長の責任でした。イエス様は、集まった多くの群衆達の家長として、神様の民の主人として、パンを分け与えたのでした。

5つのパンと二匹の魚
そうしますと、それがどこをどうやったのか、食事時を過ぎた薄暗く寂しい所でなんか起こりました。みんなよく見えなかったと思いますが、ごにょごにょやっているうちになんかパンが増えちゃったのです。しっくりこないニュース。どうやったのでしょう。弟子達が12人、の他に70人、の他に、イエス様が復活された時には500人以上いたらしいので、そこから考えます。最初12弟子が5~6人に配って72人、72人が7人に配って504人、504人が10人ずつ配ったら5000人、5000人が家族やグループに配ったら、まあいきわたります。いやいや無理だから。しっくりこないニュース。弟子たちは不慣れでしょうし、おかしな事態が起こっています。もはや翌日の新聞の一面に載る事件です。奇跡が起きたのです。これに参加したかったですね。しかも食べて満腹した、というのです。それを配っていた弟子たち、食べた人々は、まあ本当に不思議な経験をしたことでしょう。余ったパンが12かご分もあった。もう意味がわかりません。

これは嘘の記述でもなんでもありません。男だけで5000人も食べたというなら、嘘だったらとっくに覆されています。このちょっと後、キリスト教は迫害を受けましたが、迫害下にあったなら、なおさら覆されているべきでしょう。異端や、当時のローマの文献ですら奇跡に関しては否定しないどころか、その事実をどうやって説明しようか、というのがテーマ。その説明が異端なんですが。歴史の資料をいくら揃えても、本当に起こったとしか言いようがない。本当に神様がやった、としか説明がつかない。

しっくりこないニュース。本当にそんな神様がいるなら、人間なんか、相手にしないはずだ、と思う。そんなすごいことができるなら、人間になったりするはずない。でもこれが事実。神様であるお方が、何も持っていない、貧しい人々を憐れんで下さった。本当の神様が、救いに来て下さった。奇跡を起こすような本当の神様が、人間を愛して下さった。こんなことが起きたら、歴史がひっくり返る。これが人間の歴史をひっくり返してきた。

しかしさらなるニュースがある。イエス様の目的は、なんと、奇跡をおこなうことではありませんでした。これだけすごいこと起きているのに!しっくりこない。イエス様の真の目的は、人間を救うため、でありました。人間には罪があります。罪はその人の周りの人々の人生を傷つけ、その人自身の人生を傷つけてしまいます。最後には、全ての人間が罪によって罰を受けなければなりません。イエス様は、罪ある人間を救いに来られました。どのように救うのでしょうか。聖書のある箇所にある。自分の肉を食べさせ、自分の血を飲ませることによって。うえええ。人肉食。カニバリズム。キリスト教最初の頃勘違いされて、気持ち悪がられた。昔から、不老長寿をもたらす最高の健康食品は何か、ということはみんな興味があった。でも、どんなものを食べても飲んでも、人間は罪のため、必ず死ぬ。でも天国に入れる食材がある。

皆さん、イエス様は、死んで、地獄に行くべき私たちのため、天国から来たパンとなって下さいました。天国に入れるパンです。この肉体は衰え、死ぬでしょう。でも、その死ぬべき人間の身代わりとなって、十字架と言う恐ろしい刑罰を、神の御子イエス様が受けて下さった。なので、自分の立派さや行いに頼らず、イエス様を自分の永遠の命の食事なのだ、と信じる人は、永遠の命をいただくことができるのです。この方は今も生きておられ、私たちと共に歩んで下さる。日々私たちを励まし、教え、祈りに応え、導いて下さる。

前回のヘロデ王の宴会の席と、イエス様の宴会の席を比べてみましょう。
時の権力者、ヘロデ王には、豪華な食卓、すごい食材が並び、貴族が囲み、楽しみがありました。しかし権力者は、権力があるはずなのに、自分の客である人々を恐れ、正義を曲げ、不当な殺人を余儀なくされ、その義人の生首が宴会場に持ち込まれました。彼を支配していたのは罪でした。罪を覆い隠すために、さらに大きな罪を犯す、悪循環がそこにありました。ヘロデは自分の罪のため、バプテスマのヨハネを殺しました。

それとは対照的に、イエス様の小さな食卓は、多くの貧しい人々がいて、小さなパン以外何もなかった。でもそこには不思議な楽しみがあった。無料でパンを配りまくる経営方針。パンと魚がどんどん増えてゆく。これからイエス様がやろうとしていることを表していました。やがてこの宴会の主人であるご自身が、人々の罪のために命を捨てることを表していた。負債総額46億円どころではなく、自分の命を支払った。しかし、それで、もはや単なるマン、になったのではなく、さらにしっくりこないニュース。生き返った!この方の救いをいただいて、共に歩んでいきましょう!

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マタイ14:1~12 [説教]

マタイ14:1~12
1そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、
2侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」
3実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのであった。
4それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です」と言い張ったからである。
5ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。
6たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。
7それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。
8ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」
9王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。
10彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
11そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。
12それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
13イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。

今日の箇所をダイジェストすると、バプテスマのヨハネ、という人が、ヘロデ王の間違いを勇気を持って指摘したところ、逆ギレされて、殺されてしまいました。そのニュースをイエス様が聞いて、身を隠す、というものです。

ということで、今日の登場人物は、ヘロデ王と妻ヘロデヤ、娘サロメ。バプテスマのヨハネ。イエス様です。一組ずつスポットを当てていきましょう。

ヘロデ

宴会の席で、略奪婚した妻、ヘロデヤの娘、連れ子のサロメが、ダンスを踊ったところ、列席していた人々が絶賛しました。それで気を良くしたヘロデは、サロメに、褒美をとらせよう、何でもあげるぞ!と言いました。すると奥さんのヘロデヤは、バプテスマのヨハネを殺したくてうずうずしていたようで、娘のサロメに、バプテスマのヨハネの首をもらえ、とそそのかします。サロメはそのようにヘロデに伝えたところ、ヘロデは、自分の言ったことと、お客さん達の手前、あとに引けなくなって、ヨハネを処刑してしまった。という…

ヘロデは王様で、偉い人だったのに、自由ではありませんでした。彼は断れるのに、断れなかったのです。お客さん達よりも偉かったはずなのに、ヘロデは人を恐れた。ヨハネを捕えたのは、ヨハネが人々を巻き込んで反乱を起こすかもしれない、と心配したからでした。更にヨハネを殺すことを恐れたのは、ヨハネを支持する人々からの怒りを買うことを恐れたからでした。そして今回は、自分の誕生日に列席した人々の目を恐れた、というのです。

ヘロデは、盛大なパーティーを催せるほどの思い通りになるお金があり、そこに人々を集めるほどの支持があり、略奪婚をできるほどの権力があり、口を封じられるほどの自由があったのに、彼は自由ではありませんでした。ヨハネが死んでからも、イエス様の噂を聞いて、自分が殺したヨハネが生き返ってイエス様の中に働いているからだ、と恐れていたのです。

ヨハネ

ではバプテスマのヨハネの方は、どうでしょう?彼は神様に仕える預言者でした。彼は、川岸の荒野に暮らしていまして、お金なし。普段着は、らくだの毛。普段の食事、いなごとはちみつ。特別な地位があった訳でもなく、特別な人脈があった訳でもありません。それなのに、彼は自由でした。権力を恐れることなく、欲望に流されるでもなく、神様からいただいた預言者という役割を果たしました。ですから、ヘロデ王が、自分の兄弟ピリポの奥さんを略奪婚したスキャンダルに、勇気を持って発言したのです。「あなたが彼女をめとるのは不法です」誰も表立って言えなかったことを、ヨハネは言いました。

でもヨハネはヘロデを憎んでいたのではありません。むしろ、誰よりもヘロデのことを考えていた人だったのかもしれません。本当の友達だったら、本当のことを言います。ヨハネは、ヘロデに指摘することで、神様の正しさを教えようとしたでしょうし、神様の愛と赦しも教えたでしょう。彼は最後まで人を恐れませんでした。自由!ヘロデはそれを感じていた。だから実際は、ヘロデも戸惑いながらも喜んで聞いて、手厚く保護を加えていた、ともあります。

何が彼を支えていたのでしょう?ヨハネには、死んでもなくならない希望がありました。それは彼が人々に言い続けてきたことです。私達の救い主イエス様が来た!神様が私達罪びとを救って下さった!神様が下さる安心と満足感。その希望が彼を導きました。それだけでなく、奇跡のような神様の力が彼を支えていました。

普通に見れば、単なる不幸な人に見えるでしょう。でも自由な人でした!神様から恵みをいただき、神様に従いきった人。そんな状況の中でも神様に支えてもらった人。素晴らしい神様の働き人でした。

では、彼の希望、イエス様はどんな方でしょう?

神の子。救い主。私たちを愛して下さり、罪を赦して下さる方です。

しかし、イエス様は、ヨハネを助けには行きませんでした。正義と愛の方ですよね?ヨハネが閉じ込められていた塔は、ガリラヤ湖畔にあって、そのすぐ近くでイエス様は人々を教えていました。でもイエス様は、ヘロデに交渉するでもなく、釈放するように運動する訳でもなかったようです。ヨハネの弟子たちは、きっとそういう助けをイエス様に期待したでしょう。イエス様なら奇跡で助けてくれるんじゃないか。イエス様は、正しい人を救い出してくれるんじゃないか。でも、イエス様はそれを知りながら、何もしない。普段通り人々を教えていました。それどころか、ヨハネが死んだことを聞いて、ヘロデと対立したのではなく、なんとそこを去って行った、というのです。

バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエス様に、ヨハネの死を告げた時、その弟子たちの心中としては、複雑だったと思います。なぜ神様がいるなら、こんなひどいことがまかり通るのか。ヨハネがしきりに救い主だと言っていたイエス様は、そこにいながらにして、なぜ救い出さなかったのか?正直者は死亡フラグ。たぶんイエス様が立ち上がったら、多くの人が支持していましたから、ヘロデを倒すこともできたでしょうし、それを望んでいる人々も大勢いました。

しかし、イエス様の救いの方法は、イエス様の方法は、奇跡やクーデターで人々の生活を改善することではありませんでした。イエス様の方法は、正義や愛に対する欲求で人を動かすことでもありませんでした。イエス様の方法は、人々が自分の救い主との個人的な出会いを経験し、罪の赦しをいただき、一歩ずつ神様と共に歩んでいくことにありました。それこそが、人間に最も必要なことであります。イエス様は、十字架によって、自分自身を犠牲にし、私たちの罪を担い、神様に結び付ために来られました。信じる人に救いをもたらすために来られたのです。罪と死からの根本的な解決のため、本当の自由を与えるために来られたのです。肉体的な苦痛から人を救うのではなく、自分が十字架によって死ぬことを通して、ヨハネをもその罪から救おうとされたのです。

人々は、イエス様が自分達を今すぐハッピーにしてくれることを期待していました。しかし、そのような人々にとっては、イエス様はつまずきの岩でしかなかったのです。イエス様は、一時的なハッピーを与えるために来られたのではありません。この地上の王国をひっくり返すためではなく、パンを食べさせるためでもない。癒しや、悪霊追い出しをして、その時の必要を満たすためでもない。それは、副産物であって、それを通してご自身が救い主であることを、人々が信じ、神様とつながるために来られた。ご自分が十字架で、死ぬ事によって、罪人に永遠の解決、天国に入れるために来て下さったのです。イエス様は、私達を神様と完全に結び付け、恐れから解放し、本当の愛と自由に生きることができるために、十字架にかかられたのです。

神様は、私達を整えて下さいます。戦いは色々あるでしょう。でもその中で、神様は奇跡のように、弱い罪ある私たちを支えて下さいます。私達はひどい罪人なのに、すごい恵みで従わせ、ちゃんと天国まで引き連れて行って下さいます。だから、私達はこの方に耳を傾けましょう。恵みをいただきましょう。

本当の自由がここにあります。恐れや欲望からの解放、赦し、自由、新しい生き方。ヨハネがイエス様にした質問、あなたは本当の救い主ですか?イエス様の答え、予定通り私が来た。預言通り。私があなたの救い主。実現しているぞ!この時代にある私たちの中でも、そのように神様が導いてくださいますように。私たちが歩むべき道を全うさせてくださいますように。

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マタイ1:21 [説教]

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」マタイ1:21

皆さん、メリークリスマス!神様が、私たち人間を救うために、救い主をお与えくださった日、それがクリスマスです。私たちの救い主、というからには、私たちには救いが必要な状態である、ということです。救いが必要、というからには、相当大変な問題を抱えている、といえます。私たちは、自分の真実の状態を、あまり考えたくありません。しかし、考えないから、といって、その事実がなくなる訳ではありません。

私は高校卒業後、高田馬場で一人暮らしを初めました。四畳半一間、トイレ共同、風呂なし、の部屋に住んでいたのですが、なんと、そこにゴキブリが登場したのです!私は小学生時代に、クワガタを捕まえに行ったら、大量のゴキブリに遭遇したトラウマがありまして、家でゴキブリが出ると、母か妹か弟に退治してもらってきました。しかし、憧れの一人暮らしに、このようなリスクが伴うとは、全く計算外でした。

そこで出た行動は、「とりあえず風呂でも行って、この現実を忘れよう。」でした。近くの銭湯に行って、二時間ぐらいのんびりして、帰って来ました。が、まだいるのです!しかも、部屋のど真ん中に!このまま寝ることなど毛頭できませんから、今まで回避してきた戦闘を余儀なくされました。一時間ほどの熾烈な戦いが続きました。大家さんからも注意されました。しかし!とうとうゴキブリを葬り去ったのです!そのあとの眠りは、非常に心地よいものでした。問題は見ないようにしても、いつかは向き合わなければならないのですね。

私たちが人生の終わりで、永遠の眠りに心地よくつくためには、解決しなければならない問題があります。聖書は、永遠に眠る先を二つ紹介しています。一つは、火で焼かれ、うじに体を永遠に蝕まれ続ける、という地獄、もう一つは、神様がおられる天国です。当然誰もが天国に入ることを望むでしょう。しかし、私たちは、自分たちが持っている問題を解決しない限り、天国の方には入れてもらえません。その問題とは、私たち全ての人間が持っている、罪です。向こうで解決できません。こっちで解決しなければなりません。

罪、というのは、何も極悪な犯罪者だけの問題ではありません。聖書で定義する罪、とは、すべての人間が生まれながらに持っている問題で、神様から離れている状態を指しています。すべての人間は、生まれながらにして、神様から離れ、本当に正しいこと、本当に大事にしなければならないことがわかりません。自分を中心に生活しています。その結果、神様の前に正しくないことをやってしまいます。人を傷つけてしまいます。その中で自分自身も傷つきます。

神様は、そのような私たちを本来なら、罪に従って滅ぼすべきでありました。むしろ罪のない天国に私たちを入れてしまったら、そこに住んでいる人たちにとって、きっと私たちはゴキブリのような存在に映るでしょう。ゴキブリのいる天国は天国ではありません。罪ある人を入れてしまったら、天国の犯罪率は増加し、もはや天国とは呼べなくなってしまいます。私たちは自分の力で罪の問題を解決できません。どんな立派な人でも、神様の目からすれば、天国に入れるほどの正しさを持っていません。

しかし、私たちを愛してくださった神様は、私たちを救うために、救い主イエス様をお与えくださいました。イエス様は、何の罪もないご自身が、身代わりに罰を受けることによって、私たちの罪の問題を解決してくださったのです。私たちがつぶされる代わりに、何の罪もない、むしろ愛に溢れた方が、私たちの身代りとなって、犯罪人が処刑されるための、処刑道具、十字架にかかって下さったのです。代わりにご自分の正しさを、私たちに着せて下さって、天国に受け入れて下さる、これが救い主イエス様の申し出です。とんでもなく恵み深い、神様からのオファーです。

この方が身代わりになって下さったので、どんな人でも、自分の罪を認めて、イエス様の赦し、救いを受け取るなら、救われるのです。死の先にある問題は、イエス様によって解決されました。イエス様が解決してくださったので、毎日生きることも安心です。いつ何がどうなっても、イエス様がいらっしゃるのです。何とかしてもらえます。永遠の眠りにつくとき、私たちの罪は完全にきよめられ、イエス様は、私たちを天国に迎え入れて下さいます。「この人の罪の罰は、私が身代わりに支払った。何か足りないことがあるかな?」この方が、永遠の天国を約束して下さっているのです。

皆さん、メリークリスマス!このイエス様が生まれてくださった日、それがクリスマスです。
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箴言15:15~17 [説教]

悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。
わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。
野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。
箴言15:15~17

 私は6年前、心がぼっきりおれて、半年ほど、自分の部屋から出られなくなりました。その時、私の母教会のある方が、南房総のホテルに部屋を用意して下さったんです。クリスマスの時期だったのですが、一人で10日程そこに滞在させてもらいました。

 たぶん私の生涯で、最もいいものを食べた、もっとも豪華なクリスマスでした。普段だったらすごくテンションがあがるような出来事なんですが、うつ状態ですから、全然あがらない。食欲もないので、部屋にいると、従業員がひっきりなしに生きてるか確認に来た。しかたなしに食堂に行ったが、食べても全くおいしいとも感じない。むしろクリスマスムードの中、自分の存在が苦痛だった。回りがクリスマスをお祝いしている中、キリスト教の伝道者である自分が全く喜べない。そんなクリスマスを経験しました。

 その一年半後、神様の恵みによってすっかり癒されたのですが、回復祝いに家族と食事に行った時は、本当においしく感じたことを覚えています。

 人間には悩みがつきものです。心傷つくことがあります。私達の弱さは、のしかかる重みに耐えきれないこともあります。そのような時には、どのような良い出来事があったとしても、喜ぶことができなくなってしまいます。どのような感謝すべきことがあっても、苦痛のようにすら感じてしまいます。

 聖書は、人間には、罪がある、と教えます。聖書が教える「罪」とは、何も犯罪や取り返しのない事故を起こしたことではありません。全ての人間が、神様を捨て、日々恵みを下さっている神様から離れて生きている状態を指しています。私達の罪は、私の病気の時のように、神様からの恵みを恵みだ、と感じさせなくします。

 神様から離れた人間は、神様、ありがとう、と感じるセンスを失っています。いくらよいものを受けても、それで満足できません。もっと欲しい、まだ足りない、という気持ちは、人により多くを要求してしまいます。その結果、争いが生まれます。お金があっても、おいしいものを食べても、満足できません。

 聖書は、私達に本当の満足を教えます。わずかな物しかなかったとしても、野菜しか食べられない日が続いたとしても、幸せだ!と感じる方法!ありがたい!と感じられる生き方!

 それは、神様を恐れ、人を愛する、ということです。

 神様を恐れる、というのは、私達の人生に計画を持っておられる方を知る、ということです。私達の人生は、意味がある。価値がある。神様は私達を愛して、救い主イエス様を下さいました。この方はご自分の命までも私達にお与え下さるほど、私達を愛して下さっています。この方の命によって、私達には永遠の天国が与えられています。

 また、この方は、不正や悪を裁く方です。色々大変なことも起こりますが、神様が知っておられる。自分も本来裁かれるべきなのに、赦してもらっている。そしたら、人を赦すことも、難しいですが多少簡単になります。

 神様がバックについている!この事実は大きいです。私達の直面していることも、この事実を知ると、小さくなります。私達は、この方にならって、愛するべきです。

また、人が誰かを愛する時、人は犠牲を犠牲だとも思いません。
最近うちの子供が、頭をけがをして救急車で運ばれたのですが、病院に何回か行かなければなりませんでしたし、お金もかかりました。でも時間がもったいない、とか、お金がもったいない、とは考えませんでした。子供の方が大事だからです。人は、人を愛する時、多少の事は気にならないものです。我慢、とさえも思いません。野菜を食べて愛し合う。ほんの少し生活のクオリティを落として、人に分けることを考えることも大切でしょう。神様の自分への大きな愛をいただく時、私達はもう少し愛することができるようにされます。

 神様に愛されている!神様がこの事実に、弱い私達をも生かして下さいますように。そして、わたしたちがこの愛を喜びとして、毎日宴会気分で、神様を恐れ、隣人を愛することができますように!
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マタイ13:53~58 [説教]

マタイ13:53~58

これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。
それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。

 イエス様は処女マリヤから生まれ、義理の父ヨセフのもと、ナザレの町で育ちました。大工の息子、とあるように、父ヨセフは大工でした。イエス様も家業を手伝っていたようです。でもこの時、もういないところを見ると、すでに死んでいた、と思われます。父亡き後、イエス様が大工を継いで、母マリヤや弟、妹達、家計を支えてきたようです。

 ここにイエス様の弟達の名前が出てきますが、イエス様がお生まれになったあと、ヨセフとマリヤの間にも、子供がいたことがわかります。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。彼らはヨセフとマリヤの実子です。彼らはもちろん人間です。嘘もつけばいじわるもする罪人です。イエス様が宣教を開始されたのは、30歳くらいと言われていますが、兄弟達は長い年月、イエス様と生活しました。彼らは実にイエス様の12弟子以上に長い時間を、イエス様と過ごしたのでした。彼らは子供の頃から罪が全くないイエス様と共に育ちました。

 そして、彼らはきっと、母マリヤ、父ヨセフからは、イエス様の誕生について、何度も聞かされたことでしょう。天使のお告げのこと、他の子供とは違う生まれ方をしたこと、東方の博士達が星に導かれてやってきたこと、羊飼い達が天使に知らされてやってきたこと、親戚のザカリヤ、エリサベツのこと、バプテスマのヨハネのこと。エルサレム神殿での出来事、旧約聖書の預言通りのことなど。

 しかし、それだけイエス様のことを見ながら、身近な人からの証しを聞きながら、彼らはイエス様を信じなかったのです。

「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」ヨハネ7:5

「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。」マルコ3:21

 長い時間イエス様と時間を過ごせば、信じられるようになる、というようなものでもないようです。これだけ長い間聖書の話を聞き、イエス様のそばにいて、その様子を見ながらも、全く信じないどころか、気が狂っている、という噂を信じて、イエス様を連れ戻しにやってきたのです。これはイエス様としてはがっくりきますよね。

 でも、そんな彼らの住む町へ、イエス様は戻って来られます。大活躍中の若き預言者イエス様の故郷凱旋、と言ったところでしょうか。イエス様は、ユダヤ人会堂で人々に教え始められました。54節を見ると、町の人の注目ぶりが伺えます。

「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」

 確かに知恵があるし、不思議な力もある。でも一体どこからそれを得たというのだ?大工のヨセフの息子で、母はマリヤ、兄弟はあいつら。妹達はどこの嫁になっている。そんな奴が偉そうなこと言いやがって。兄弟たちと一緒ですね。

 私は大学生の時、人生で初めて東スポかサンスポか、忘れてしまいましたが、スポーツ新聞を買いました。1面の見出しに大きく、青い顔で目が赤い、髪の毛がない、牙が生えている人の写真があって、タイトルは「コウモリ人間捕獲か!?」。すごい!大発見だ!と思って、買いました。最近そういう記事が少なくなっているようで、残念でなりません。今から約1800年前にも似たようなものがありまして、「トマスによるイエスの幼児物語」、というのが新約聖書外典に含まれています。当時、大衆の創作読み物として読まれたようです。

 それには、イエス様の5歳から12歳までに行った、という奇跡が描かれています。それによると、少年イエス様はひどく高慢で、ぶつかった子供に腹を立てて死なせるとか、いじわるした少年をひからびされてしまうとか、結構ひどい作品。実際この通りの子供だったら、恐ろしくて、今回のようには誰も文句を言えません。

 ナザレの人々は、イエス様は、小さい頃から立派だった、とか、父ヨセフはどういう人だった、とか、ヨセフが亡くなったあと、大工仕事をイエス様が継いだ、とか、町の人々は、イエス様の外面的なことはよくわかっていたはず。彼らはイエス様の家系図や組織図は上手に書けたでしょう。いつどこに引っ越して、どこで誰と出会って、何をしていた、とかも、知っていたでしょう。ある程度のヨセフ家の財産まで推測できたかもしれません。兄弟、姉妹たちの悪事も知っていたかもしれない。

 しかし、聖書で昔から預言されてきた救い主が本当に生まれた、などとは、まったく信じなかった。まさか自分達の町が、神の子の町になるとは、全く受け止めていなかった。

 ヨセフやマリヤも、イエス様が小さい頃から、町の人にほめられるたびに、他の兄弟達に証ししたように、証しした事でしょう。しかし、それを聞いてきたはず、見てきたはずの人々は、それが実現している、とは、信じなかった。神の救い主が目の前にいる、とは信じられなかった。

 「この人は」という言葉が繰り返し出てきますが、それは軽蔑をこめた表現なのだそうです。知恵と不思議な力を認めながらも、馬鹿にしている。

 イエス様は、故郷に凱旋するどころか、待っていたのは軽蔑と侮辱だったのです。一番身近で、一番理解して、一番応援してくれるはずの人々は、何もわかっておらず、何も期待しておらず、何もイエス様に与えなかった。一番長く一緒にいたはずの兄弟姉妹ですら、全くイエス様を知らなかった。イエス様にとって、非常に悲しいことだったでしょう。

 でもイエス様は、その故郷に何をしに来られたのでしょうか。その全てを知っておられながら、なぜ戻って来られたのでしょうか。その彼らに福音を伝えるために、イエス様は戻って来られたのです。ご自分が尊敬されないことをわかっていて、それでも来られたのです。それにも関らず、彼らを愛して、低くなられたのです。「悔い改めなさい、天の御国は近づいた!」

 このようなことは、何もこの時代の人達だけの問題ではありません。教会は、イエス様の体である、と聖書は教えています。教会の兄弟姉妹と親しいクリスチャンはたくさんいる。よく教会について知っているし、組織や年表や出来事、教会の財産や人間関係、罪や噂までも詳しい。長く関係を持っている。でもそこに住んでおられるイエス様について、何にも知らない、という場合が多いのです。

 クリスチャンとして歩む、ということは、教会の外側のことを知ることではありません。そこに住んでおられるイエス様と、個人的に、霊的な関わりを持つ、ということです。具体的には、自分の罪を認め、イエス様の救いを感謝して受け止める、ということ。イエス様を個人的な救い主である、として、イエス様の教えていることに耳を傾けて歩もうとすることです。

 故郷のイエス様を迎えた人々は、自分たちの生活を、何も変える気はなかった。イエス様、久しぶり、くらいに考えていた。ですから人々は、悔い改めと、救いを教えるイエス様の話を、まじめに聞けなかったようです。

 でもイエス様は、彼らに神様の救いを与えるため、変わらなければいけないことを教えるため、来られました。罪が当たり前になってしまっている人に悔い改めを、自分など神様に見捨てられている、という人には、神様の愛を、神様に何の期待もしていない人には、希望を与えるため、来られたのです。そういう知識を教えるため、ではありません。その現実に気づかせ、その現実に生かすためにです。

 イエス様は、私達に日々新しいことを望んでおられる。本当は、私達にはいつも新しい悔い改めが必要なのです。いつも神様の愛を新しく受け止め直す必要があるのです。いつも新しい希望を神様からいただかなければ、自分の限界に、また立ち止まってしまう。

 イエス様の愛は、そのような私達に、新しい考え方、自分の限界と別次元の受け止め方をさせて下さいます。別次元の結果をもたらすことができる。私達はそこを歩き続けようとしている。

 だから、私たちは、いつもと変わらないことを望むのではなく、イエス様が今日下さろうとしている新しい恵みを受け取りましょう。罪深い私が受けとることができるように、聖霊様に助けていただこう。変えていただきましょう。

 イエス様の最大の奇跡は、罪人をイエス様に倣う者として歩ませることです。罪の延長に歩もうとするのは簡単です。でも、今日、新しい恵みをいただいて、新しい受け止め方をして、イエス様に倣って歩みたい、それは聖霊様の働きによるものです。

 仕事忙しい、子育て大変、勉強やばい、さらにイエス様に従うなんて。自分の力ではもうこれ以上進めない。そうでしょう。だからイエス様が下さる新しい恵みが必要なのです。だからイエス様は毎日、私達に新しい恵みを下さろうとしているのです。

 だから私達は、今日また、新しい恵みをいただいて、新しい心で、イエス様ご自身に向き合いましょう。新しい恵みをいただいて、イエス様を敬い、イエス様の道を歩みましょう。
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マタイ22:23~33「生きている者の神」 [説教]

23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、
24 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。
25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。
26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。
27 そして、最後に、その女も死にました。
28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
30 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の{神の}御使いたちのようです。
31 それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

人間は必ず死ぬ日がきます。どんな立派な人間でも、絶対に死んでしまいます。事故や病気で早く死ぬ人もいれば、長寿を全うして死ぬ人もいます。遅かれ早かれ、全ての人間は、必ず死ななければなりません。

 ヨーロッパ、チェコ西部のセドレツという村に、聖母マリヤ大聖堂という建物があります。1300年頃、チェコで建てられた中で最大の、ゴシック様式の立派な建物です。世界遺産に指定されていて、観光客が絶えません。

 中でも注目を集めているのが、その隣に建てられた墓地教会です。その会堂の中には、なんと、人骨で作られた祭壇やシャンデリア、燭台、十字架、装飾品などがたくさんあります。それらのものは、その墓地に葬られた4万人分もの骨を使って作られました。

 中世は、多くの人々が、伝染病や、戦争などで、簡単に死んでいく時代でした。

 当時の修道士達は、人間が簡単に死んでしまう、ということ、また、そのような弱い人間を、神様が、もう死ぬことがない強い者に復活させて下さる、という希望を覚えさせるために、そのようにしたのだそうです。それにしても大分グロテスクな会堂ですが。

 私達はなかなかそのようなものを目にする機会はありませんが、同じように死はやってきます。私達は、いつか死ぬべき、弱い者である、という事実は、いくら目を背けたとしても、逃れることができない現実です。

 その死に対して、どのような解決を、私達は持っているでしょうか。今年の流行語大賞の候補に「終活」という言葉がありましたが、地上におけるエンディングまでは、私達はある程度コーディネイトできるでしょう。しかし、その先はどうなるのでしょうか。

 自分の内には何もない、という現実を、私達は知っています。どんな立派な人間であっても、死んで何もできなくなる日が来ます。

 しかし、ただ一人、死から復活され、もはや死ぬことのない方がいらっしゃいます。イエス・キリストです。このお方は、死からよみがえられて、もはや死ぬことがありません。この方を信じるなら、誰でも罪を赦され、この方のよみがえりの永遠の命をいただくことができます。イエス様の救いは、悔い改めて福音を信じる全ての人々に与えられました。

 今日の箇所、イエス様が、サドカイ人と呼ばれる人に質問された時の答えを見てみましょう。サドカイ人と言うのは、そういう人種がいる訳ではなく、当時の聖書解釈の学問グループを指しています。この人々は、政治家や議員に多く、教養があり、リッチで、ローマから特権階級を認められたブルジョアな人々でした。彼らはモーセの律法はある程度重んじていましたが、それ以外は認めません。パリサイ人が、がちがちの保守派であったのに対し、いわゆる当時のリベラルといったところでしょうか、現実第一、合理主義、世俗的でありました。目に見えるものだけを信じて、現実的に生きることが大事だ、という訳です。ですから、人間の復活などない、と主張していました。

 しかし、最近どうもイエスというやつの周りが騒がしい。死んだ人間がよみがえったとかいう噂がある。イエス自身も死んで生き返る、とか言っているらしいぞ。しかも民衆の間では大人気で、自分達には都合が悪い。論争を吹っかけて、やっつけてやろう。それでイエス様に質問を投げかけた訳です。

24「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。
25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。
26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。
27 そして、最後に、その女も死にました。
28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」

 彼らは、モーセの律法の申命記25章に書かれていることを引用してきました。これは、一族の子孫を絶やさないためであり、未亡人を守り支えるために与えられた法律でした。しかし、それを持ちだして、もし復活などあったら、大変なことになるではないか、お前はペテン師だ!という訳です。

 しかし、イエス様はそんな彼らを嘆かれます。

 「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。

 そんなことを言っているのは、無知な上に、神様を軽く見ているからだ、はー、やれやれ。という訳です。特権階級のお金持ちの教養ある議員先生達を相手に、30歳そこそこのイエス様が言い放ちます。これはカチーン!と来たでしょうね。

 しかし、逆に、神様であるイエス様から見たら、それこそカチーン!と来る状況でした。イエス様は見かけは30歳ですが、中の人は神様ですからね。何にもわかっていないような連中が、偉そうに人々に間違ったことを教え込み、特権階級にあぐらをかいて、神様を恐れもせず、本当にどうでもいい前提を持って、議論をふっかけてくる。あー、嘆かわしい。という訳です。

 しかし、イエス様は、そんな彼らに懇切丁寧に真理を教えようとします。もし自分だったら、あー、もう天国帰る。こいつらもう無理。と、あきらめると思います。でもイエス様は、そんな彼らをやっつけたのではなく、怒りに身を任せたのではなく、忍耐して忍耐して、彼らのレベルに降りて、降りて、彼らを説得しようとされるのです。現実主義と言いながら、霊的な現実を知らない彼らに、本当の現実を、神の力の現実を知らせようとされるのです。

30 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の{神の}御使いたちのようです。

 復活は、この罪で汚れた世界の延長線上にある訳ではないのだ、というのです。また、色々な人間関係のしがらみに悩む世界に生きるのではない。また、病気や苦しみや事故や事件があるような世界に生きるのではない。神様が下さる復活は、そういった人間の足りなさや欠けや罪や弱さから自由にされる、全く新しい命なのです。

 今現在は、私達は色々なものに依存しなければ生きていけません。神様から離れているゆえに、色々な物による支えを必要とします。しかし、復活の際には、神様が私達を直接支える方となって下さいます。まるで天使のように、結婚関係さえも必要なくなる自律的存在になるのです。

 ではこの地上の結婚関係はどうなるのでしょう?天国では罪がありませんから、この地上の罪ある結婚関係よりも、より深い愛によって結ばれた、自律的存在になることでしょう。この地上の結婚という、大事な枠組みさえも、はかなくみえるほどのとんでもない完全な世界に、私達は招かれています。私達を愛し、いつくしむ偉大な神様が、私達を完全な世界に迎えて下さる。そこに私達は入るのです。

 さらにイエス様は、ダメ押しのように、サドカイ人が大好きなモーセに、神様が自己紹介したところから引用します。

31 それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」

 アブラハム、イサク、ヤコブというのは、モーセ達イスラエル人の先祖ですが、実にモーセよりも430年以上も前に生きた人々でした。とっくに死んでいた人々です。今から430年前、というと、日本ではまさに戦国時代まっただ中です。織田信長や、豊臣秀吉、徳川家康が、私達にとって過去の人物であるように、当時のモーセからしてみれば、アブラハム、イサク、ヤコブという人々も、それくらい過去の人物でした。

 しかし神様はモーセに、まさに彼らが生きているかのように、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である、と自己紹介するのです。死ぬことがない永遠の神様は、死ぬべき人間を愛して下さいました。永遠の神様が愛するなら、その愛は永遠なのです。

 私達がこの地上にぽっと出て、ぽっと消えゆくようにみえるでしょう。しかし、神様の前では、その死でさえも、その人を取り去ることはできません。永遠にその人の神となって下さる方なのです。この私達が見ている世界が消え去っても、あってある方が神となった、という事実は、永遠の命にその人を活かします。アブラハム、イサク、ヤコブは、地上の生涯は死んでいなくなっていますが、神様の目の前に生かされています。天国に生きているのです。

 その神様が430年後のモーセに、かつてアブラハム、イサク、ヤコブの神であった、と自己紹介したのではなく、神である、と自己紹介しているのです。

 この神様を信じる人は、この命をいただくことができます。永遠の、なくなることがない命。死んで終わってしまうことがない命。神と共に、とんでもない天国で生きる命。この命は、イエス様が分け与えて下さったものです。

 この現実社会に流され、合理的であろうとし、世俗にまみれて、神様に背いて生きる私達に、この命は全くふさわしいものではありません。天国をこの地上の延長であるかのように縮小し、神様の力などあてにしない、自分で自分の運命を切り開いているかのように勘違いする私達には、神の赦しや愛は、全くふさわしいものではありませんでした。

 しかし、イエス様は、そのような人々のために、忍耐して、忍耐して、噛み砕いて、諭して、救いをもたらそうとして下さいました。

 結局このサドカイ人達は、パリサイ人、祭司達と協力し、イエス様を十字架にかけて殺してしまいます。私達を愛して、救いに来て下さった神様の救い主を返り討ちにしたのが、この人類の歴史であります。

 しかし、どういう訳か、それにも関らず、私達を愛したイエス様は、そのご自身の十字架の死によって、代わりに私達に赦しをもたらしてくださいました。ただ悔い改めて信じる者が、この命を受けるにふさわしい、と定めて下さったのです。

 私達は、このイエス様によって、神につながれました。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、私達の神ともなってくださいました。私達はすでに、神につながれて、永遠の命に生きる存在です。死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

 だから、私達は、ますます神に逆らって自分勝手に生きるのではなく、この神様の愛と謙遜を覚えて、今日神様の前に謙遜になって、神様を愛して歩みましょう。イエス様は、そのことばの通り、よみがえられました。この約束は確かなものですから、私達は復活の命について、もう一度受け止め直して、しっかり神様を仰いで、過ぎ去るものにこだわりを置くのではなく、やがて来る完全なものを待ち望んで今日、歩みましょう。

 すでに、キリストに連なって天に召された一人一人は、この神様に連なって、永遠の命に生かされています。のちの状態は詳しくは明らかにされていませんが、確かなことは、この地上にはるかに勝る所に、この神に抱かれて生きている、ということです。

 私達は、この毎日を必死に駆け抜けていますが、やがて地上を去り、その天国に至ることになります。永遠の神様が、永遠の愛で、限りある私達を愛し、ご自分に連なるものとして数えて下さったからです。生きておられる神様に、すでに召された人々の天国での礼拝と共に、賛美と感謝をささげましょう。

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詩篇138:8 [説教]

「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。
主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。」詩篇138:8

私達人間が生きていく上で、関わっていることはたくさんありますね。
仕事のこと、家庭のこと、学校のこと、親のこと、子供のこと、友人のこと、地域のこと、お金のこと、健康のこと、家や車のこと、食べるものや着るもの、色々な関わりの中で、私達は生きています。

色々な責任を担いながら、私達は振り返る間もなく、人生を駆け抜けています。

やり直したくてもやり直せないこと、あの時ああしておけば、ということも出てきます。

親孝行や子育て、家族関係、仕事上の人間関係など、もっとああできれば、ということも色々あるかもしれません。

色々なやり残し、色々な課題、色々なしこりをも残しながら、やがて全ての人間が最後のときを迎えます。

年老いていくと、物忘れが多くなります。自分が何をしなければいけなかったのかも忘れてしまいます。ぼけてしまうこともあります。あれほど大事にしていたこと、大切な人までも、忘れてしまう。ぼけてしまわなくても、健康を損なえば、大事な人や大事なことのために、自分が何かしたい、と思っても、もうできない、ということも出てきます。

キリスト教徒にとって、いくらぼけても忘れたくないことは、信仰でしょう。イエス様が私に何をして下さったのか、どれほど神様に愛されてきたのか、年をとって、何もできなくなればなるほど、その大きさを感じることでしょう。

ただ、私達は、自分の記憶さえも失うことがあり得ます。信仰の記憶や、信仰心までも、忘れてしまうような事態が、私達には起こりえるのです。自分がいくらそれを大事に思って、大事に行動しようと思っても、それさえもわからなくなってしまうような弱い肉体を、私達は持っています。

しかし、今日の箇所には希望があります。

「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」

神様が私に関わるすべてのことを成し遂げて下さる。取り返せない失敗、やり直せない人生、維持できない健康、とどめておけない記憶、取り返しのつかない罪、私達が人生を通じて得ていくものは、実に耐えがたい苦悩であります。しかし、その私達の弱さ、足りなさがありながら、その私達のために、この私のために、私に関わる全てのことを、神様が成し遂げて下さる。イエス・キリストの十字架のゆえに!

何という希望でしょうか。天地を造られた、聖なる神様が、私の全てを成し遂げて下さる。私が抱えきれなくなった全ても、丸ごと受け止めて、神様が救いを成し遂げて下さる。だから、私達は自分たちに覆いかぶさる数々の波にも、安心して委ねていくことができるのです。頭の上を越えていく波の中であっても、神様が成し遂げてくださる。だから、なおさらちゃらんぽらんに生きるのではなく、今日、この神様に感謝を持って、ベストを尽くすのです。

さあ、今日私達が成し遂げるべきことは何でしょうか。たくさんあるでしょう。でも今日ベストを尽くしたら、明日に回したらいいのです!明日になったら、明日のベストを尽くしましょう。そしたらその次の日に回したらよいのです!来週のことは来週、来年のことは来年、抱えきれないこともあって当然!その中でベストを尽くします。神様、どうか私の至らない部分は多いですが、どうか成し遂げる力となって下さい。やり直せないことは多いですが、どうか改善できることを改善できるように導いてください!神様の恵みはとこしえにあり!あなたの御手のわざを捨てないでください。
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マルコ10:13~14 [説教]

「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」マルコ10:13~14

 イエス様が地上で活躍されたときの年齢は、30歳~33歳だそうですが、若いですね。うちの息子は4歳になりますが、親しくさせていただいている若いお兄さんを見つけると、キックやパンチを浴びせかけ、戦いごっこに誘います。

イエス様の所に連れて来られた子供達がイエス様にキックやパンチをしたかどうかわかりませんが、弟子達が止めたところを見ると、まああり得ないことではないかもしれないな、と想像します。マイクやスピーカーのない当時、子供が騒ぐと、大人達がイエス様の話が聞けなくなる、と思ったのでしょうか、弟子たちは彼らを邪魔に思い、追い返そうとしました。するとイエス様は憤った、というのです。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」

 弟子たちは、子どもたちがイエス様の話を聞いても、どうせわからないだろう、と思ったのかもしれません。弟子達は、偉い学者達や、身分の高い役人、話が通じる大人などに、イエス様の話を聞かせたかったのでしょう。弟子たちは、イエス様のことを考えていたつもりでしたが、実際は大人達や偉い人たちの御機嫌をとろうとしたのかもしれません。それで子どもたちを追い散らしたのでした。しかしイエス様は、イエス様を素直に受け入れている子供達の方を、喜んで迎えいれたのです。

 弟子たちが合わせようとした人々は、その時、確かに聞いているかのように見えました。しかし、この後すぐに、イエス様を、神を冒涜する大うそつき、として、十字架にかけろ、と訴えるようになったのです。

 イエス様の話の最中うるさくする、どころの話ではありません。彼らは、「この人には何の罪も見られない」というピラトの声に耳をふさぎ、その声をかき消すように、「十字架につけろ!」と叫びたてたのです。

 また、彼らは、子供がイエス様を大好きなゆえにまとわりついて、キックやパンチをするどころではありません。イエス様をむちうち、いばらの冠をかぶらせ、その手足に釘を打ち、十字架にかけて殺すものとなりました。

 また、弟子達は、自分たちより弱い子供達を追い散らすことはしました。しかし、自分たちより強い人々が、十字架にかけるためにイエス様を捕まえに来たときには、話を聞かせたのではありません。恐れて逃げてしまいました。

 イエス様のため、と言いながら、イエス様の心を十分考えていない、それが私たち人間です。イエス様のため、と言いながら、弱いものをしいたげ、強いものにへつらうのが人間です。

 しかしイエス様は、その人々のために、十字架の上で、「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られました。この矛盾だらけの罪人を、イエス様はそれでもなお愛し、とりなして祈って下さいました。

 ですから、私たちは、悔い改めと感謝をもって、このイエス様のもとに近づきたいのです。

 子供のように神の国を受け入れる心をもって、イエス様に近づきたいのです。他人への配慮も持ちながらも、イエス様が招こうとしておられる人々を大事に思いたいのです。

 私はこの点で失敗するものです。色々なことを心配しすぎて、人に気をつかいすぎて、イエス様が招いておられる人々を追い散らしていないだろうか。イエス様に素直に近づこうとしている人々や、愛情を持って近づこうとしている人々を、見過ごして、いや追い散らしてはいないだろうか。

 イエス様、申し訳ありません。もうちょっとそのへんのセンスをいただきたく思います。

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