クリスチャンとして生きる [イエス様に学べ!]
クリスチャンがお手本とするのは、やはりイエス様であります。
カトリックの方では、聖人と呼ばれる、立派な模範的クリスチャンがたくさんいますし、
聖書の中にも立派な人物はたくさん登場しますが、その全ての人も、
まずイエス様ありき、という事で、人間いかに生きるべきか、イエス様に学びましょう。
(プロテスタントに特別な聖人は、いませんが、模範的な方々はたくさんいらっしゃいます。
聖書の中では、全てのクリスチャンが聖徒(聖人)と呼ばれています。)
イエス様は、神と人間との間に立つ、仲介者であります。
人間は罪によって、神を捨て、背いて、勝手気ままに生きているので、
本来、神の裁きが下るべき存在であります。
しかし、神様は、そんな人間を憐れみ、イエス様によって救おうと定められました。
神と人間との仲介者ですから、完全な神であり、完全な人間でなければなりません。
イエス様は、神の聖霊によって、人間マリヤに宿る、という方法で、
完全な神である方が、完全な人間としてお生まれになったのです。
そして、完全な人間として、空腹や渇き、疲れを経験されました。
また、痛みや苦しみさえも味わわれ、十字架の上で、死さえも経験されたのです。
何の罪もないイエス様が、完全な人として、私たちの代わりに罰を受けて下さったので、
ただ信じるだけで赦される事になったのです。
人々は、十字架にかけられたイエス様に、「お前が神の子なら、そこからおりてこい!」と
罵声を浴びせましたが、本当は降りる事もできたのに、おりずにイエス様は祈りました。
「父よ。彼らを御赦し下さい。彼らは何をしているのか、自分でもわからないのです。」
驚くべき祈りです。
何の罪もない、完全な人間であるイエス様が身代わりになって下さったので、
不完全な罪人が、信じるだけで赦される事になりました。
また、同時にイエス様は、完全な神であられました。
自分のためには、いっさいその力を使いませんでしたが、
(断食の時、石をパンに変える(マタイ4:4)など)
人々のためには、喜んで神の力を発揮され、病人を癒し、悪霊を追い出し(マタイ4:23)、
奇跡を行い、罪の赦しを宣言(マタイ9:2)されました。
また、聞かれた時には、正直に、
ご自分が神の子キリストである事を主張(マタイ26:63~64)されました。
イエス様は、完全な人、完全な神として、私たち罪人と、(ヨハネ17:21)
神様の間の完全な仲介者として、私達に救いの道を開いて下さったのです。
私たちの能力や功徳、財産も私たちを救い得ません。
しかし、イエス様が私たちのために命を支払って下さったので、
私たちは、信じるだけで、救われるのです。
イエス様、ありがとうございます。
是非皆さんも信じて救われて下さい。
「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えて下さいました。」
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」第二コリント5:18~21抜粋
で、ここから何を学ぶべきかといいますと、
イエス様が神の子として歩んだように、私たちには、神様の基準が必要です。
神様の基準である聖書をお読みください。
聖書は、私たちへの神様のメッセージです。
キビシイことも、やさしい事も、書いてあります。
両方私たちに必要な言葉です。是非読んでみて下さい。
教会では随時学びもやっていますので、是非お問い合わせください。
また、人としてどう生きるか。祈りつつ生きましょう。
私たちは神様に奇跡のように生かされています。
ですから、神様に感謝するべきですし、イエス様が他の人のために祈られたように、
人の苦しみや、痛みを覚えて、祈るべきです。
また、うらみを持たずに、赦せるように、自分を変えてもらうためにも祈るべきでしょう。
要するに、神様の基準に基づいて生きられるように、
奇跡のように、自分を変えていただけるように。
また、周りの人々を助けてもらえるように、祈って行きたいものです。
聖書と祈りによって、歩んでいきましょう。
カトリックの方では、聖人と呼ばれる、立派な模範的クリスチャンがたくさんいますし、
聖書の中にも立派な人物はたくさん登場しますが、その全ての人も、
まずイエス様ありき、という事で、人間いかに生きるべきか、イエス様に学びましょう。
(プロテスタントに特別な聖人は、いませんが、模範的な方々はたくさんいらっしゃいます。
聖書の中では、全てのクリスチャンが聖徒(聖人)と呼ばれています。)
イエス様は、神と人間との間に立つ、仲介者であります。
人間は罪によって、神を捨て、背いて、勝手気ままに生きているので、
本来、神の裁きが下るべき存在であります。
しかし、神様は、そんな人間を憐れみ、イエス様によって救おうと定められました。
神と人間との仲介者ですから、完全な神であり、完全な人間でなければなりません。
イエス様は、神の聖霊によって、人間マリヤに宿る、という方法で、
完全な神である方が、完全な人間としてお生まれになったのです。
そして、完全な人間として、空腹や渇き、疲れを経験されました。
また、痛みや苦しみさえも味わわれ、十字架の上で、死さえも経験されたのです。
何の罪もないイエス様が、完全な人として、私たちの代わりに罰を受けて下さったので、
ただ信じるだけで赦される事になったのです。
人々は、十字架にかけられたイエス様に、「お前が神の子なら、そこからおりてこい!」と
罵声を浴びせましたが、本当は降りる事もできたのに、おりずにイエス様は祈りました。
「父よ。彼らを御赦し下さい。彼らは何をしているのか、自分でもわからないのです。」
驚くべき祈りです。
何の罪もない、完全な人間であるイエス様が身代わりになって下さったので、
不完全な罪人が、信じるだけで赦される事になりました。
また、同時にイエス様は、完全な神であられました。
自分のためには、いっさいその力を使いませんでしたが、
(断食の時、石をパンに変える(マタイ4:4)など)
人々のためには、喜んで神の力を発揮され、病人を癒し、悪霊を追い出し(マタイ4:23)、
奇跡を行い、罪の赦しを宣言(マタイ9:2)されました。
また、聞かれた時には、正直に、
ご自分が神の子キリストである事を主張(マタイ26:63~64)されました。
イエス様は、完全な人、完全な神として、私たち罪人と、(ヨハネ17:21)
神様の間の完全な仲介者として、私達に救いの道を開いて下さったのです。
私たちの能力や功徳、財産も私たちを救い得ません。
しかし、イエス様が私たちのために命を支払って下さったので、
私たちは、信じるだけで、救われるのです。
イエス様、ありがとうございます。
是非皆さんも信じて救われて下さい。
「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えて下さいました。」
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」第二コリント5:18~21抜粋
で、ここから何を学ぶべきかといいますと、
イエス様が神の子として歩んだように、私たちには、神様の基準が必要です。
神様の基準である聖書をお読みください。
聖書は、私たちへの神様のメッセージです。
キビシイことも、やさしい事も、書いてあります。
両方私たちに必要な言葉です。是非読んでみて下さい。
教会では随時学びもやっていますので、是非お問い合わせください。
また、人としてどう生きるか。祈りつつ生きましょう。
私たちは神様に奇跡のように生かされています。
ですから、神様に感謝するべきですし、イエス様が他の人のために祈られたように、
人の苦しみや、痛みを覚えて、祈るべきです。
また、うらみを持たずに、赦せるように、自分を変えてもらうためにも祈るべきでしょう。
要するに、神様の基準に基づいて生きられるように、
奇跡のように、自分を変えていただけるように。
また、周りの人々を助けてもらえるように、祈って行きたいものです。
聖書と祈りによって、歩んでいきましょう。
2010-02-23 18:14
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