SSブログ

詩篇100:4 [説教]

「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。 」詩篇100:4

 私が神学生時代、車のナンバープレートが相手の車とぶつかる事故を起こしてしまいました。相手の車の外国製の40万円近くもするホイールが傷ついてしまい、保険で支払うことになりました。また、自分の車もナンバープレート部分がとれてしまい、修理しなければなりませんでしたが、お金もかかるし、面倒なので放置して乗っていました。

 その数ヶ月後、夏季伝道という、何人かで地方の教会に一週間ほど滞在し、教会活動を手伝う、というイベントがありました。自分たちのグループは、岐阜の教会をお手伝いすることになり、私の前のナンバープレートの取れたままの車と、もう一台とででかけました。

 現地について、色々な奉仕やイベントを楽しく実施していたのですが、週の半ばにさしかかった頃、岐阜県警に車を止められました。私はナンバープレートが取れている車に乗っている、という現行犯で逮捕されまして、千葉で簡易裁判所に行きなさい、とのことでした。30万以下の罰金か禁固刑、ということで、一応その後ナンバープレートを修理したら乗って帰っていい、となったのですが、イタイ思い出です。

 千葉に戻ってきまして、簡易裁判所に行くときは、憂鬱な気分で、どうなるんだろう、と心配しながら入って行ったのを覚えています。結局5万円くらいの罰金を支払ったのですが、事故に続き、イタイ思いをしました。

 この聖書が書かれた時代、町の門では、長老たちが集まって、裁判を行なっていました。(申命記21:19、25:7等)また、庭でも裁判が行われました。英語では裁判所をcourtと書きますが、大庭、という英語訳の聖書と同じ言葉です。昔は庭で裁判が行われていたからです。大祭司の庭でイエス様は裁判にかけられましたし、神殿の庭はいけにえをささげるところであり、(第二歴代誌7:7)時に刑罰もそこで下されたようです。(第二歴代誌24:21)

 全ての人間は、死後、全てをご存知である神の裁きにあわなければなりません。神様の基準の前では、全ての人間が罪を犯しており、刑罰を受けなければならない、と聖書は教えています。「義人はいない。一人もいない。」のです。

 ですから、全ての人間にとって、あの世とは希望のない世界です。死は恐ろしいものであり、永遠の刑罰に服する門であります。その刑罰の先に何かを期待することなど、残念ながら知りうる限りできません。

 しかし、聖書は、その私たちにものすごい希望を与えています。

「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。 」詩篇100:4

 その神様の前に、感謝しながらやって来い、その裁判の席に、賛美しながらやって来い、というのです!そこで主に感謝し、御名をほめたたえよ!というのです!なぜでしょうか?

 その私たちを、神様が、ご自分の民、として下さったからです。どうしてでしょう?罪ある私たちのために、救い主が与えられたのです。イエス・キリストが、私達の罪の刑罰を一身に背負って、私たちに赦しを下さったからです。自分の罪を悔い改めて、イエス様を主、と呼ぶ人を、ご自分の民と加えてくださるからです。

 何の功績もないものが、ただ、このイエス様によって赦されます。どういう訳か、神様がそこまで私たちを愛して下さっているのです。だから、感謝しよう!賛美しよう!御名をほめたたえよう!と、招かれているのです!

 このイエス様の赦しをいただく時、私たちにとって死とは永遠の滅びの門ではありません。永遠の喜び、感謝と賛美の天国への門になります!神様の大庭は、心配し、恐れながら判決を待つ場所ではありません。御名をほめたたえる祝賀パーティー会場になるのです!罪がある者だったのに、イエス様が「無罪」と書かれた紙を、穴の開いた手で広げて下さるのです!(私の個人的なイメージです)

 ですから、今日、私たちはなおさらちゃらんぽらんに生きるのではなく、この日を喜び恐れなく迎えるために、しっかり歩まなければなりません。このイエス様に従って、このイエス様に信頼して、今日、歩んで生きましょう!この方がやがて私たちを迎えてくださるその日まで。

nice!(0)  コメント(0) 

エペソ2:1~10 [説教]

10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

1.作品の特徴

 皆さん、好きな作品ありますか?
 私は昔、「MCエッシャー」という人が書いた絵が好きで、大学時代、部屋にいくつも飾っておきました。音楽では、「ジューダス・プリースト」というバンドが好きで、CDアルバムを全部持っていました。その他、漫画や映画、小説など、皆さんもお好きな作者がいることと思います。

 作品には、作者の特徴が出ますよね。MCエッシャーの絵は、不思議な幾何学的な雰囲気が出ています。ジューダスプリーストの曲は、ギターのハーモニーで様式美を奏でてています。作者は、時間、エネルギー、心血を注いで、作品が完成します。完成したら、作品を大事にして、大切に扱うことでしょう。

2.私たちは神の作品

 今日の箇所で、私たちは神の作品である、と言われています。創世記を見ましょう。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1:26~27

 人間は、神様によって、神様に似せて造られました。ですから、私たち人間には、神様の特徴が現れているのです。私たちは、神様に似せて作られたので、神様が人を大事に思うように、人を大事にしたい、と思う。神様に似せて作られたので、正しさ、真理を探究します。私たちは神様の形に作られたので、神様っぽさが入っているのです。

3.罪の問題

 しかし、どういう訳か、愛することや、正しいことを、自分のうちに大事に思いながらも、大事にしない心が湧き上がることがあります。頭の中では、正しいことが大事、愛が大事と思いながらも、拒む心も沸き起こります。罪によって神から離れた結果、私達の中では、本来の神様っぽさを喜ぶ心に逆らう心が沸き起こるのです。

 なぜ人は殺人や盗みや、嘘や、性的な不道徳に陥るのでしょうか。それらの罪は表面的に出てくるものにすぎません。罪の根本にある問題は、神様から離れている、ということにあります。

 私たちを大事にしてくださる神様を忘れてしまっているので、私たちは人を大事にしません。私たちに十分な恵みを下さる神様を知らないので、人に与えるよりも、自分のために少しでも奪うことを考えてしまう。神様が守ってくださることを知らないので、自分の立場を守るために、人を態度や言葉、時には暴力までも使って攻撃してしまう。神様の十分な愛を感じられないので、道ならぬ愛を追い求めてしまう。自分の真実の姿を、そのまま受け入れてはもらえない、と知っているので、嘘をついてごまかす。その罪の根底にあるものは、私たちを愛し、守ってくださっている、神様を知らない、ということにあるのです。この神様から離れて、人間が社会を築き上げてしまっているために、問題はもっと複雑になっています。

 それ以降、人間はみんなこの性質を受け継いで、神様から遠く離れて歩むようになってしまいました。罪が当たり前の世の中に、自分も罪を持って生まれ、罪を吸収して育つので、そこから出てくる生活も、罪を大いに実らせることになってしまっています。私たちを愛し、私たちを価値あるものとして下さった神様から離れてしまっているから、本当に生きるべき人生を知らない。大切にされていることを知らずに過ごしてきたから、それが普通になってしまっているのです。神様に愛され作られた、人間として本来のあるべき生き方を、まったく失ってしまっている、といえるでしょう。

4.神の憐れみ

 しかし、本来失敗作として葬り去られてもおかしくない、その私たちに対し、どういう訳か、神様は愛を示して下さいました。救い主、キリストを下さったのです。救い、というのは本当に死にそうなときに使う言葉です。私たちは、神様から離れ、罪で死んで、地獄に行くほどの、大きな問題を抱えているものです。神様が、命がけで助けなければならないほどの問題でした。この世界は人間の罪によって、滅び行く世界となってしまいました。ある意味自業自得なのですが。

 しかし、その世界に神であるお方が飛び込まれたのです。イエス様です。神である方が、自分のあり方を捨てて、私たちを救うために人間となられました。そして、私たちを救うために、命の危険も顧みず、神様に反対して歩む人間社会の中で、神様を指し示し続けたのです。だからものすごい反対を受けて、命の危険も何度もありました。それでもイエス様は、人々の救いのために、神様を指し示し続けることをやめませんでした。私たちも、自分には罪があって、地獄行きの問題児だ、と言われて、気持ちのいい人はいないですよね。当時の人もそうでした。ですから、自分を救いに来てくださったイエス様を、邪魔な存在としてみなして、十字架にかけて、殺してしまったのです。自分たちはそんなに悪くない、そんなに大きな問題はない、と思ったからです。自分を愛し、命をかけて救いに来られ、本当の救いを指し示して下さった方に、恩に仇で報いてしまいました。

 しかし、それは、私たちを救うためのご計画でした。自分のしたことを悔い改め、神様を信じて歩もうとする人を救うため、イエス様は身代わりに死んでくださったのです。何の罪もない方が、罪人の代わりに死ぬことによって、信じる罪人が、罪を赦され、救いをいただくことができる、として下さったのです。神の怒りを受けるべきわたしたちに、イエス様は、憐れみを注いで下さいました。私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪の中に死んでいた私たちを、キリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました、というのです。

 この天国シートは自分の努力で得られるものではありません。神様がただ、愛するゆえに、恵みによって与えてくださいました。自分が立派だったから、ではないのです。イエス様が立派な愛をまっとうしてくださったから、私たちはどんな人でも天国に行けるのです。

 私こそ救われるにふさわしい人間だ、などと、誰が言えるでしょうか。ふさわしくない者を、キリストによってふさわしい、と認めてくださる神様ゆえに、今日私たちはもう一度十字架を仰ぎ見、神様に感謝をささげるのです。

5.行いではなくキリストを誇りとする人生

 私は洗礼を受けて約20年経つのですが、洗礼を受けた当時、本当に自分がふさわしくない者だ、と思っていました。まあ本当にふさわしくなかったのですが。周りのクリスチャンがとても立派に見えて、自分がいかにわかっていないし、足りない者であるかと、よく思いました。

 でも逆に喜びもありました。イエス様はこんな者なのに愛して下さっている。こんなに足りないのに。だから賛美歌は、感謝をこめて、一生懸命歌いました。

 でもそれが20年も経つと、まるで自分が何か立派であるかのように考えてしまうことも多々あります。説教に対しては、批評家のようになってしまいます。奉仕で忙しくて、何のためにしているのかもよく考えないで上手にやります。何が上手なのか、ということですね。お祈りは立派な言葉は並べられるようにはなったが、形式。感謝や喜びよりも、周りの人間への不満の方が簡単に出てきます。自分が聖徒にふさわしくない、ではなく、周りの人間は聖徒にふさわしくない、となってしまいます。

 私は、今もなお、聖徒の交わりにふさわしい人間ではありません。私の心には多くの問題が今もなお深くあります。十分な熱心さも、十分な感謝も、十分な喜びも、足りない者です。これほどの愛を受けていながら、冷たい者です。知っているつもりで知らない者です。

 しかし感謝したいのは、私が十分だったから、イエス様が死んでくださったのではない、ということです。イエス様が救い主として来てくださったのは、このような罪人のためです。恵みを受けてなお、感謝に乏しい、信仰に乏しい者のためにです。それなのに愛して下さる。それなのに赦しを下さる。それなのにまた再び立たせて歩ませて下さる。だから私はまた悔い改めて、何度もやり直して、この道を歩みたいのです。行いや形式の立派さではなく、感謝と愛を持って、神様についていきたいのです。

6.神の作品として生きる。

 私たちは神様の作品です。すばらしく愛されている。一人一人、ユニークで、誰一人として同じ生涯を歩む人はいない。神様が心を、愛を注いで、造って下さった、大切な存在なのです!

 どうやって神の作品として、ふさわしい生き方ができるでしょうか。人生の説明書が必要です。神様の言葉、聖書を読みましょう。また悔い改めて祈りましょう。ふさわしく歩めるように、神様に助けてもらいましょう。

 神様は遠くないのです!毎日目を注いでくださっています。作品ですから!作品を守るのは作品自体ではありません。作者です。権利を持っている方が、守るのです。この方は、自分の命を支払って、この権利を手に入れられました。そう簡単に見捨てるはずがないでしょう?私たちの使命は、一生懸命自分を守ることではありません。作品の使命は、作品の素晴らしさをありのままに出すことです。作者の素晴らしさを、余すことなく伝えることです。自分に与えられた人生を、真理に基づいて歩むことです。私たちが栄光ある神様の作品です!神様の素晴らしさを示しましょう!

 自分を誇りとするのではなく、神様を誇りとして、この方を指し示して生きる!これが私達の使命です。愛とよい行いをもって神様に、隣人に仕えましょう。悪い道に歩むべきではないし、良いことをしたなら、ますます謙遜にへりくだって、神様がすばらしい、と神様を誇りとしましょう。神様の前に感謝をもって、今日歩みましょう!
nice!(0)  コメント(0) 

聖書朗読:箴言3:1~7 [説教]

聖書朗読:箴言3:1~7
わが子(こ)よ。私(わたし)のおしえを忘(わす)れるな。私(わたし)の命(めい)令(れい)を心(こころ)に留(と)めよ。
そうすれば、あなたに長(なが)い日(ひ)と、いのちの年(とし)と平(へい)安(あん)が増(ま)し加(くわ)えられる。
恵(めぐ)みとまことを捨(す)ててはならない。それをあなたの首(くび)に結(むす)び、あなたの心(こころ)の板(いた)に書(か)きしるせ。
神(かみ)と人(ひと)との前(まえ)に好意(こうい)と聡明(そうめい)を得(え)よ。
心(こころ)を尽(つ)くして主(しゅ)に拠(よ)り頼(たの)め。自(じ)分(ぶん)の悟(さと)りにたよるな。
あなたの行(い)く所(ところ)どこにおいても、主(しゅ)を認(みと)めよ。そうすれば、主(しゅ)はあなたの道(みち)をまっすぐにされる。
自(じ)分(ぶん)を知(ち)恵(え)のある者(もの)と思(おも)うな。主(しゅ)を恐(おそ)れて、悪(あく)から離(はな)れよ。

あけましておめでとうございます。

 これをお読みになっている方の中に、聖書の神様がどこかにいらっしゃる、と信じ始めている、という方もいらっしゃるかもしれません。神様がは人を導いて下さるお方です。神様は皆さんがどんな違う立場であっても、今の、ありのままを受け入れて下さいます。また、私たちにも違いを受け入れあうように教えておられます。しかし、覚えていただきたいのは、まことの神様も、ご自身を受け入れてほしい、知ってほしい、と願っておられる、ということです。

 新しい一年にも神様の恵みと導きを私たちが期待するなら、神様は喜んで下さいます。神様は私たちを祝福と恵みに導こうとしておられる方です。神様は私たち一人一人を、意味のある存在として、御造り下さいました。神様は、全ての人を愛し、意味のある存在として造られたので、意味のある人生を送らせたい、と願っているのです。そのために、私たちが知るべき神様の御言葉、聖書をお与えくださいました。これが意味ある人生の源です。祝福の源です。これが私たちへの導きです。いかに生きるべきか、いかに歩むべきか、教えておられます。今年も共に聖書を学び、神様の恵みのもとに歩んでいきましょう。今日は聖書から、3つのポイントをお分かちしたいと思います。

1.主により頼め→人生のガイドブック・聖書を持つ。
2.自分の悟りに頼るな→神様に反対する心、罪は、人生に問題を起こすので避ける事。
3.主はあなたの道をまっすぐにされる。→神様の助けがある!

 まず一番目。ガイドが必要です。人生のガイドは聖書です。聖書は、あなたの人生の意味を教え、あなたの目標にたどり着くための「道しるべ」をあたえます。神様はあなたの行くところどこにおいても主を認めよ、自分の悟りに頼るな。と教えます。ガイドにはこうあるけど、自分はこっちの方が正しいと思う、と言っていると、完全に道に迷う事になります。ガイドブックには、自分のほしい情報が全て載っていないかもしれませんが、自分の勘よりも確かな事は、確かです。聖書は、神様が人間のために書いたガイドブックです。世界の初めから、何千年以上に渡って人間を導き続け、今もなお、世界中で多くの人々の人生を導いています。私たちを造って下さった神様が、私たちのために書いて下さった本です。あなたの人生をも導く事ができる本です。ぜひ読んでみてください。

 二番目。その聖書は教えます。自分の悟りに頼るな!というのです。
私達は、自分の思い通りにやっているはずなのに、うまくいかないことがあります。私たちが自分中心に生きると、それは、私たちの生きるべき道を見失わせます。私達が迷うのは、自分の悟りに頼って歩んだ時です。私達は、悟っているようで、自分の内側、外側に、たくさんの問題を抱えています。自分のやましさ、ねたみ、悪口、憎しみ、怒り、など、人間の罪は、私たちの人生を台無しにします。真の神様から離れて生きることが、罪の根本である、と聖書は教えます。私たちはもともと罪の中に生まれ育っているので、違和感なく、神様から離れて生活できてしまいます。いつの間にか、罪に負ける事になれてしまうのです。しかし、罪は、人生にとって永遠の死をもたらす大問題なのです。

 それなのに、その私たちを救うために、イエス様が身代りになりました。命がけの愛です。神様は、私たちが受けるべき罪の罰を、全てイエス様に負わせました。イエス様が十字架で、私達の罪を赦して下さいました。イエス様は、私達が悔い改めるなら、全ての問題、罪を、引き受けて、新しい心を下さいます。イエス様は、私達と神様との関係を修復してくださいます。また、私達の人間関係を修復して下さいます。一人のときの慰めとなってくださいます。生涯を共に歩んで下さいます。あなたのゆくところどこにおいても、主を認めるべきです。神様が共にいてくださるので、自分の人生を委ねることができるのです。

 三番目。私達には神様の助けが必要です。困ったとき、友達に助けてもらった経験をした人もいるかと思います。自分でわからなくなった時、どうしようもなくなった時、そのような助けが、どんなに心強かったか、覚えがありますか?私達はときに、自分の力では乗り越えられない壁にぶつかる事を経験します。神様は、私達が本当の目的地にたどりつくことができるように、私達を導いて下さいます。神様は、私達の人生を、適切なガイドするだけでなく、歩む力、乗り越える力となってくださるのです。聖書は教えます。あなたの道を主に委ねよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。神様が私達の道をまっすぐにしてくださいます。神様が共にいる人生にも、同じように問題は起こります。しかし、神様が共にいて下さるので、必ず乗り越えることができるのです。聖書は神様のラブレターです。聖書は知識のためにあるのではありません。聖書を通して、差出人本人の神様と是非生きた関係を築いていただきたいと思います。

今日、神様があなたの人生を導いて下さいますように。人生のガイドが必要な方、是非神様にお祈りしてみてください。神様の言葉である聖書を読んでみてください。今日皆さんがここにいるのは、神様の導きです。教会は、皆さんが神様との関係を築くお手伝いをします。今年もよろしくお願いします。

nice!(0)  コメント(2) 

ローマ8:1~4 [説教]

聖書朗読:ローマ8:1~4
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 世界にはたくさんの法則が存在していますね。

 すべての物は下に落ちる、万有引力の法則。車は急に止まらない、慣性の法則。エネルギー保存の法則、質量保存の法則、V×A=W、何か燃やすと二酸化炭素が出る、等。

 地球上のあらゆる場所で、このような法則が支配しています。そこから抜け出せるものはありません。統一規格。ものすごい数の法則が世には存在しているが、あらゆる場所で、まったく同じように、それらの法則は効力を発揮しています。相互に関係しているのに、それでも成り立っています。だから私たちは安心して生活できる。これは、唯一絶対の創造主によって造られないと、絶対不可能です。論理的に考えて、複数のばらばらの真理を主張する神同士が作っていたら、成り立たちません。

 聖書は、物理的な原則と共に、霊的原則を教えています。霊的な存在、人格ある存在である私たちにも原理原則があるのです。

 聖書は教えます。人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る、一つ一つの言葉による。人間の人生とは、物理的に生きる、ことではなく、神に従って、正しいことや愛をもって生活すること大事だと教えています。

聖書が教えていること

 神様が人間を創造された際、人間が神様に従って生きることが、大事な原理とされました。聖書を読むと、人間がいかに生きるべきか、本当によく書かれています。聖書の律法は、私たちにいかに歩むべきか教えています。そこに従って生きることは、安全です。

 普通、人は、万有引力に逆らってみようとしません。それは逆らっても怪我をする、と知っているからです。むしろそれを利用して、すごいことを成し遂げようと工夫します。同じように、もっと大事な人間の生きるべき霊的な原理、人生の指針に関する原理に従って生きることは安全なはずでした。

 しかし、最初の先祖アダムは、それに逆らうことを考えました。神様の原理にしばられるより、自分が神になろうとしたのです。その結果、その最初の先祖の罪が、そこから生まれるすべての人間を支配することになってしまいました。神に逆らって生きる、自分が中心になって生きる、という考え方が、人々を支配することになってしまいました。神様が定めた、秩序ある、原理をやぶって、自分が中心になろうとする人間が、世界にひずみを作ってしまったのです。

罪の悲惨

 その結果、聖書の言いたいことはわかる。いいことが書いてある。しかしまったくそう歩めない。となってしまいました。むしろこれに反することの方がなじみ深く、自然になってしまったのです。

 その結果、私たちを支配しているもうひとつの原理が発生しました。私たちすべての人が、いつか必ず死ぬ、ということになったのです。一人も例外はいません。すべての人間が、死という原理の下に支配されることになったのです。

 最初の人間アダム以降、すべての人間が、神様の原理に逆らって、堕落しました。罪と死が人間に入り、それ以降、今も人間は逆らい続けています。罪や死が悲しく思うのは、もともと私たちにとって不自然なものだからです。

 すべての人は、生きてはいても、神様の前で死んでいる者になりました。確かに肉体のいのちはあるが、霊的な原理がわからない。本来の生きるべき道を知らない、勝手気ままに滅び行く道を進み続けている、死んだ存在となってしまったのです。

 人間は肉によって無力になり、死に売り渡されてしまいました。自分で自分の命を買い戻すこともできず、自分で自分の罪を洗い落とすこともできません。霊的な指針、律法を与えられても、従わない、従うことができない、神様の原理にかなう霊的な力を持たない、肉的な存在になってしまいました。律法を知れば知るほど、自分の醜さ、弱さを痛感することになりました。

なぜキリストが人となって来られたのか

 しかし、神様は、それでも、この私たち人間を愛してくださり、ご自分の御子、イエス・キリストを、私たちの救い主として下さいました。イエス様は、私たちと同じ、完全な肉を持って人間としてお生まれ下さった。神であるお方が、人となってお生まれ下さったのです。処罰を受けるべき、罪深い人間の肉の身代わりに、罪のないご自分の肉といのちを支払って、私たちを買い戻して下さったのです。何の罪もないイエス様が、十字架にかけられ、自分の命を支払ってくださったので、すべての人間は、信じるだけで赦されることになったのです。

私たちを解放するため

 人間は、この罪と死の原理に、自分の力、肉の力で対抗することはできません。私たちに深く根付いている罪の本質が、私たちを神様に逆らわせています。しかし、神様は、イエス様の十字架の命の原理によって、私たちを解放してくださいました。

 イエス様の愛ゆえに、信じるすべての人に与えられる新しい原理があります。命の御霊の原理です。罪と死の原理から救い出す、また律法の要求からさえも救い出す、新しい立場。新しい身分。神に愛される者、赦されている者、神の子、イエス様の死をもって償われた者。解放された人!

どうやって?
 信じるすべての人に、神の霊(御霊、聖霊)が与えられます。神様ご自身が私たちの内に入り、私たちの存在の根本から、変えてくださるのです。罪と死の原理の下にあった私たちは、聖霊様によって、命と御霊の原理のもとに入れられます。

新しい原理
 いのちの御霊の原理は、私たちに新しい欲求を与えます。これからは罪の欲求ではなく、神様に従って歩みたい、という願いがおこされます。律法を守らないといけないから守る、のではなく、神様を愛するから、自由だから、罪の方、ではなく、いのちの方、御霊の方、神様の原理原則の世界の本来のあり方の方に歩みたい、となるのです。

 もちろん私たちは失敗します。私たちは弱い。自分の罪深さを知っています。聖書の人物や、神様と比べて落ち込むこともあるでしょう。

でも、それこそ喜ぶべき事実です。その人が落ち込むのは、神様を見ているからです。神様を基準にして考えているからです。神様を信じているからです。それは御霊が導いているゆえに起こることです。それは、御霊に従って歩もうとしているゆえに起こる葛藤なのです。聖霊様の促しによって、自分の肉との戦いが起こっているのです。あなたの中に、神様がいるゆえにおきている事柄なのです。

 律法の要求がまっとうされる、とあります。神様を愛して歩もうとする人のうちに、聖霊様に導かれて歩もうとする人々のうちに、神様は律法の要求の完成を見てくださるのです。なぜ?イエス様の十字架のゆえです。ということは、私たちがちゃらんぽらんでいい、ということではありません。この大きな愛を受けている者として、励ましあって、慰めあって、神様に従って生きる、ということを、つきつめていかなければなりません。本来の原理原則の中の、本来の生きるべき道だった、と世の中に流されゆこうとする自分の頭を、もう一度ゆり動かして、いやいや、神様の原理原則こそが大事だったよな、と思い起こすべきなのです。

 こういうわけで、キリスト・イエスにあるものが、罪に定められることは決してありません。キリスト、神の御子が私たちの身代わりに命を支払ったのです。だから罪に定められることが決してないのです。自分の中に罪の葛藤を見出すパウロが言っているのです。自分の中に従おうとしない肉の欲求を抱えている、と告白するパウロが言っているのです。私たちも同じです。キリストイエスにあるゆえの葛藤。これは希望です。キリストを信じるゆえにある葛藤。したがっていこうとすればするほど、起こる葛藤。それがイエス様の命の原理の証明なのです。
nice!(0)  コメント(0) 

「地球外生命体っぽく生きる」 [説教]

イエス様は十字架にかかる直前、オリーブ山、という山で、このように祈りました。

16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。ヨハネ17:16~17

イエス様はこの世のものではありませんでした。天国からやってきた神様でした。そのイエス様が、弟子達と、弟子達を通してイエス様を信じるであろう、後の時代の人々のことをさして、祈りました。「彼らもこの世のものではありません。」ガガーン!

 確かにイエス様は水の上を歩いちゃうし、悪霊を追い出しちゃうし、病気も治しちゃうし、死人も生き返っちゃう。確かにイエス様は人間離れしていましたが、そのイエス様が、「彼らも」この世のものではありません、だって言うのです!

 いやいや、私達は、至って普通の男の子、女の子、でしょう、イエス様のような立派なことはできないし、奇跡とか無理だし、第一罪があって、イエス様のように愛情深くないし、聖くも正しくもない。もちろんイエス様を信じているから、愛をもって聖く正しく歩みたい、でもでも、と言うのが私達です。

 その私達のために、イエス様は天の父に祈る。

「真理によって彼らを清め分かって下さい。あなたの御言葉は真理です。」

 自己中心、汚い心こそが、私達人間の本質です。自分でもどうしようもないものです。しかし、真理である方、神の言葉である方、イエス様が、その私達を罪から救うために、身代わりに十字架にかかって下さいました。聖くない私達を聖くするために、罪人から天国人にするために、自分の命を支払って下さったのです。信じる者を、神が聖くして、天国人にして下さった、というのだから、天国人なのです!

 イエス様を信じる全ての人は天国人です。私達を聖めて下さった天の父が、御言葉によってこれからも私達を導いてくださいます。

 今も天国人は、世を忍ぶ仮の姿として、この地上で生活しています。しかし、やがて天の御国、神様の御許に行く日が来ます。この地上にあって、この地上にありません。天国人として、残りの日々を生きようではありませんか!

 イエス様にならって生きよう!真理の御言葉に従って生きよう!本音と建前のない、裏表のない神様の前に行く準備をしよう!正しく、愛を持って生きよう!赦せないことが起こる時、それでも赦そう!みんな違うんだから。罪の闇を見るときもあります。それでも愛そう!イエス様が愛してくださったから。その中で、自分がもっと違う神様から、どれだけ愛され赦されているのか気づくでしょう。

 侵略しよう!この世界を!武力ではなく、イエス様の愛と真理によって!ラブ&ピース!
nice!(0)  コメント(0) 

詩篇109篇 [説教]

詩篇109篇 指揮者のために。ダビデの賛歌

1 私の賛美する神よ。黙っていないでください。
2 彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌をもって、私に語ったからです。
3 彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み、ゆえもなく私と戦いました。
4 彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです。
5 彼らは、善にかえて悪を、私の愛にかえて憎しみを、私に報いました。

6 どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。
7 彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、その祈りが罪となりますように。
8 彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、
9 その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。
10 彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。

11 債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように。
12 彼には恵みを注ぐ者もなく、そのみなしごをあわれむ者もいませんように。
13 その子孫は断ち切られ、次の世代には彼らの名が消し去られますように。
14 彼の父たちの咎が、主に覚えられ、その母の罪が消し去られませんように。
15 それらがいつも主の御前にあり、主が彼らの記憶を地から消されますように。
16 それは、彼が愛のわざを行なうことに心を留めず、むしろ、悩む者、貧しい人、心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとしたからです。

17 彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。
18 彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。それは水のように彼の内臓へ、油のように、その骨々にしみ込みました。
19 それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。
20 このことが、私をなじる者や私のたましいについて悪口を言う者への、主からの刑罰でありますように。

21 しかし、私の主、神よ。どうかあなたは、御名のために私に優しくしてください。あなたの恵みは、まことに深いのですから、私を救い出してください。
22 私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています。
23 私は、伸びていく夕日の影のように去り行き、いなごのように振り払われます。
24 私のひざは、断食のためによろけ、私の肉は脂肪がなく、やせ衰えています。
25 私はまた、彼らのそしりとなり、彼らは私を見て、その頭を振ります。

26 わが神、主よ。私を助けてください。あなたの恵みによって、私を救ってください。
27 こうして、これがあなたの手であること、主よ、あなたがそれをなされたことを彼らが知りますように。
28 彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。
29 私をなじる者が侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ますように。
30 私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真中で、賛美します。
31 主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。

 ひどい個所ですね。キリスト教というと、愛と赦しの精神があるはずのように思いますが、そこから考えると理解が難しい。呪い満載。でも聖書。

 正直に私たちの心の中を覗くなら、こういう呪いたくなる状況が一度や二度、あったのでは?
 これは人間の現実。私たちが生活している中で出会う現実。

 その中でこの作者ダビデは、神様の前で、愛だ、赦しだ、と取り繕ったりしない。真実で正義な神様に、正直でありのままの心で祈っている。聖書はそれを肯定する。おいおい、ダビデ、いい加減にしろよ、赦せないお前が悪いんだ、などと言わない。ただ神様は聞いて下さる。人間の弱さの現実、痛みの現実、苦しみの現実、葛藤の現実を、ありのままで受け止めて下さる。

 人間は、しょうがない、と受け流したり、聞きたくない、として、向き合おうとしない事はある。しかし神様は、しょうがない、で受け流したりしない。そんな祈りは聞かない、ではない。私達の悲しみの全部、わめきちらしたい全部を受け止めて下さる。ダビデ、赦せないの、愚かだね、と私たちはなる。なぜか。処世術を心得ている。自分が悪い、として、自分を押し込む方法で解決策をとる場合がある。でも真実な神様は、ありのままを受け止めて下さる。神様は批判しない。神様は評価しない。お前の祈り0点、とか言わない。真実を全部知っておられる。一番正しく評価できる方。6:4とか交通事故の処理以上に細かく評価できる方。それなのにありのままを受け止めて下さる。

 ダビデの賛歌、と表題にありまして、私の賛美する神よ、と始まりますが、その後はむしろ、ほぼ呪いの歌ですね。

1 私の賛美する神よ。黙っていないでください。
2 彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌をもって、私に語ったからです。
3 彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み、ゆえもなく私と戦いました。
4 彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです。
5 彼らは、善にかえて悪を、私の愛にかえて憎しみを、私に報いました。

 4~5節の内容から読み解くと、ダビデが呪いたい相手は、ダビデと親しかった仲間、家族のような存在だったようですね。自分が愛し、親しかった存在、自分が善を行った相手が、自分に敵対するようになって、戦いを仕掛けられる。ダビデはこのような経験を何度かしています。自分の上司であり、妻の父であるサウル王、ダビデは彼に仕える家臣でした。しかし、彼からゆえなく命を狙われました。彼に真実を尽くしているのに、です。

 ダビデは自分の息子アブシャロムから、命を狙われました。これは理由はダビデにもありますが、自分のかわいがった子供から命を狙われました。親しかったアモン人の王ナハシュが死んだのち、お悔やみのため部下を遣わした所、息子のハヌンから命を狙われることになりました。その他にも色々ありました。

 この状態の中で、彼は関係改善や修復を祈り求めたのではありません。敵のために祈る、そんな余裕すらなくなっているほどに痛んでいた。敵のために祈ることは大事ですよ。でもこの時、ダビデはそんなことなどできないほど苦しんでいた。赦すことなどできない。その状態で、そのいっさいを神様の前に注ぎだす。6節から20節は呪いのオンパレード。

 6 どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。
7 彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、その祈りが罪となりますように。
8 彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、
9 その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。
10 彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。

11 債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように。
12 彼には恵みを注ぐ者もなく、そのみなしごをあわれむ者もいませんように。
13 その子孫は断ち切られ、次の世代には彼らの名が消し去られますように。
14 彼の父たちの咎が、主に覚えられ、その母の罪が消し去られませんように。
15 それらがいつも主の御前にあり、主が彼らの記憶を地から消されますように。
16 それは、彼が愛のわざを行なうことに心を留めず、むしろ、悩む者、貧しい人、心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとしたからです。

17 彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。
18 彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。それは水のように彼の内臓へ、油のように、その骨々にしみ込みました。
19 それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。
20 このことが、私をなじる者や私のたましいについて悪口を言う者への、主からの刑罰でありますように。

 すごいですね、聖書の神様が言っておられる事に基づいて、聖書的に呪っています。神様を敬わない、悪を行う人に対する裁きが下るように祈っている。8節の「彼の仕事は他人が取り、」は、イスカリオテのユダがイエス様を裏切って自滅して後、ペテロが引用している個所です。そのゆえに、109篇は、「イスカリオテ詩篇」と呼ばれるのだそうです。9節の所からは、出エジプト記20章5節、「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」という御言葉が実現するように祈っている。その子供まで呪っている。

 ここまで呪うのはひどすぎる、ダビデって歪んでいる、と思う人もいるでしょう。聖書でダビデは歪んでいる所も確かにありますが、信仰者のモデルとして描かれていますし、イスラエルの偉大な王であり、少なくともここにいる私達よりは偉大な人物?人間が比べるのも愚かな話ですが、普通の人、立派な人でした。

 そんな人がここまで呪うのはなぜか。それほどの苦しみと仕打ちを受けたのです。私達には理解しがたいほどの痛みと悩みと苦しみの中にあったのです。赦そうとしなかったのではありません。何度も赦そうとしました。ダビデは自分の心を何度も試した、と言っています。彼の悩みは大きかった。赦せない自分を責めた事もあったでしょう。

 しかし現実に悪があって、やはり突きつめるなら、悪が根本的に解決されなければ、その影響がどれほどのものか、知っている人の祈りなのです。悪の根絶のため、その悪人が育てる子供達さえも根絶やしにされるように、とまで祈るのです。

 聖書の中で、聖絶、というのがあります。ある民族を、その悪のゆえに、完全に根絶やしにする、という命令です。これは理解しがたいですが、神様が世界に救いをもたらすために、選らばられた方法で、ダビデもそのため戦った王でした。

 とはいえど、このまま呪い続ける結果も、何の解決もない。気が錯乱して終わるしかない。彼は神様の憐れみ、応答を得る。神様に向き合う中で、慰めを得る。26節、神様は私を助けて下さる。神様は私を救って下さる。神様がこの難しい状況の中でさえも共にいてくださって、決して裏切ることのない、決して自分を見捨てる事のない保護者として、守って下さる。その平安に導かれます。

26 わが神、主よ。私を助けてください。あなたの恵みによって、私を救ってください。
27 こうして、これがあなたの手であること、主よ、あなたがそれをなされたことを彼らが知りますように。
28 彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。
29 私をなじる者が侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ますように。
30 私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真中で、賛美します。
31 主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。

 神様に助けと救いを求めつつも、27節を見ると、面白い。その神様の助けと、救いが、自分の身にもたらされる事を通して、その敵である人々が、神様を知るように願っているのです。彼は単に自分が生き残るためだけの助けを必死に求めたのではありません。自分に助けをもたらして下さる神様の救いによって、人々が、神様を知る事になるように願っているのです。人々が神様を恐れるようになることを願っているのです。

 人々の呪いに代えて、祝福をお与え下さる神様に、期待しているのです。だから彼は神様に感謝する。賛美する。救い出して下さる神に栄光を帰している。ダビデは激しい訴えの中、激しい悩みと苦しみの中、その中で、自分の弁護士である神様が共に自分と立って下さる事を感じた。自分の全部をさらけだして、全部以上を受け止めて下さる神様を体験した。それは自分が立派だったからではない。すぐれた人間だったからではない。人が見る以上に、自分が愚かだと思う感覚をダビデは持っていただろう。神様はより愚かだと思うだろう。当然彼は、そんなひどい呪いを祈る自分の醜さを知っているだろう。しかし、神様が憐れみ深く、赦して受け入れて下さる神様の愛のゆえに、自分のありのままをさらけだす。自分が思う以上の最善を成して下さる神様の前に。

 さて、このような祈りを本来ささげることができるのは、誰でしょう?私達以上に、ダビデ以上に、このように祈るべき仕打ちを受けた方がいらっしゃる。この109篇はメシヤ詩篇と呼ばれる。メシヤ、救い主、イエス・キリストは、実に私たち人間を愛された方。私たちを愛し、私たちを憐れみ、救うためにこの地上に人間となって来て下さった。神様の愛、神様の赦し、神様の正しさをもたらすため、人間となられた。仕えられる主であり王である方なのに、仕えるものとなって、多くの人々に仕えられた。彼らの心のうちにあるものをご存知でありながら、彼らを赦し、励まし、彼らの可能性を信じ、愛された。

 しかし、人々はイエス様を喜ばなかった。愛されれば愛されるほど、ご自身を明らかに示せば示すほど、人々はかたくなになり、反抗心をあらわにし、敵対するようにまでなり、十字架にまでかけて殺してしまった。十字架というのは、神に呪われるほど悪い者がかけられる刑。愛と真実の方、赦しと恵みに満ちておられる方が、神に呪われた者として十字架にかけられた。今週は受難週。今週金曜日はイエス様が十字架に架けられた日。13日の金曜日、というホラー映画がありますが、それはこのイエス様が十字架に架けられた金曜日を現わしている。13と言うのは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが13番目の弟子と言われているからだそうです。

 しかしこの日は、不吉な日ではありません。かえって私たちを救う神の不思議な、そして偉大な計画が完成した日だからです。人々が呪って十字架にかけられたイエス様が、十字架の上で祈ったのは、この詩篇109篇ではありませんでした。イエス様こそこのように祈るべきお方でした。しかし、イエス様は自分を十字架にかけ、あざけり、ののしる人々の声を聞きながらいのられたのです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34

 本来神に呪われたものとして十字架にかけられるべきは、自分の罪を認めず、神を受け入れようとしない、神の教えをあなどり、神に対して逆らい、いないものとして生きようとした、人間の方なのです。神によって裁かれ、何代にも渡って呪いを受けるべきは、実に人間の方なのです。しかし、神様は、そのような私たちを救うために、イエス・キリストをお遣わしになられたのでした。

 イエス様は、死ぬ間際に言われました。「完了した。」

 何が完了したのでしょうか。何の罪もないご自分が、この神様に逆らって生きる、私達の罪を、身代わりに負って、神に呪われた者として殺される、代わりに罪深い人間を、完全に赦す、という事が完了したのです。私たちを完全に救う、神の計画を、イエス様は完了されたのです。

 ですから、どんな人でも自分の罪を悔い改めて、イエス様を信じるなら、赦されます。イエス様が私たちの代わりに、この呪いを身に引き受けて下さったからです。私たちは祈りを聞いていただけるような身分ではないにも関わらず、ありのままの全てを受け入れていただくことができます。イエス様が身代わりになって下さったからです。このイエス様の十字架は、私のため、あなたのため、です。このイエス様を受け入れる時、私たちは、神に受け入れられます。罪あるありのままで受け入れていただく事ができる。

今週は受難週です。このイエス様の十字架と復活を仰ぎ見つつ、歩んでいきましょう。

nice!(0)  コメント(0) 

詩篇108篇 [説教]

詩篇108篇 歌。ダビデの賛歌
1 神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。
2 十弦の琴よ、立琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
3 主よ。私は、国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
4 あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
5 神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられますように。
6 あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。
7 神は聖所から告げられた。「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。
8 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。
9 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテの上で、わたしは大声で叫ぼう。」
10 だれが私を要塞の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。
11 神よ。あなたは私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。
12 どうか敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。
13 神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます。

どういう詩篇?
 1~5節は、詩篇57:7~11からとられた感謝の歌。6~13節は、詩篇60:5~12からとられた、助けを求める祈願の歌。57篇は王の嘆きの歌、60篇は、敗北の経験を歌った歌。ダビデが戦いにおいて、部下を励ました時のものではないか。

 1~5節の賛美と共に、6~13節、神様の約束に訴えかけている。

なぜこの歌?
 ダビデは多くの戦いを経験した。ウリヤが戦死した時のように、ときに敗北することもあった。神様から約束をいただいているのに、苦戦を強いられる事もある。聖書の中にいっぱいいい事が書いてあるのに、なかなか思うようにいかない。私たちは主の民、約束をいただいている者、それなのに、どうしてその通りに実現しないのか、と訴えたくなる時がある。ダビデもそうだった。

 ダビデは信仰の人。神様がイスラエルに約束された、約束の地を、自分の国の人々に受け継がせるために、先頭に立って戦った。決して自分勝手なことではない。神様の約束に信頼していたから。数々の勝利を治め、イスラエルの領土は広がった。途上でもうこれだけ広がったからいいか、とはならず、神様が約束したのだから、と、前進し続けた。

 しかし、簡単ではなかった。それなのに苦戦した。相手は先に住んでいた人々。昔住んでいたから、と言って、400年以上も経って、自分達の所有権を主張したって、何を今さら、という感じ。強固な砦。体格もいい。軍隊が強くて有名。周りの国からも非難を浴びた。ダビデは、神様の約束の実現を求め、精一杯働いた。サウルが死んで、王になったとき、彼は神の民のために先頭に立って戦った。しかし、ダビデが戦うと、他の国がどんどん攻めてきた。第二サムエル8~10章で、ダビデがペリシテを屈服させると、モアブも攻めてきた。モアブを倒すと、ツォバの王ハダデエゼルが攻めてきた。ハダデエゼルが攻めてくると、ダマスコのアラムが一緒になって攻めて来た。ハダデエゼルを倒すと、エドムとの戦争になった。エドムを破ると、アモン人が敵対するようになり、アモン人にはアラム人が味方するようになり、もう戦争の連続。ようするに四方八方から攻められた。神様はダビデに、「あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。」歴代誌第一28:3と言われるのももっともなほど。

 神様の約束の実現のために、まじめにやればやるほど、周りの国に攻められ、神様の約束抜きに考えるなら、ばかばかしい権利の主張をして、自分の命のみならず、部下達の命も危険にさらしてしまっている。これは悩むはずですね。

 だからこそ、ダビデは賛美と共に、自分を、また部下を奮い立たせている。

 1 神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。

 私たちの心は、揺るぐものです。しかし、神様ゆえに、神様が支えて下さるので、私たちは、揺るぐことなくかたく立つ事ができるのです。自分で自分をかたく立たせようとする努力は、実に虚しいものです。しかし、神様は弱い者を奇跡のように立たせて下さる方なのです。

 2 十弦の琴よ、立琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
3 主よ。私は、国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
4 あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

 彼は自分を覆う闇の深さを感じていました。賛美が出て来そうにもない状況に取り囲まれている様子がわかります。だからこそ、彼は告白する。竪琴よ、目を覚ませ!暗闇の中で眠るな、神様が支えて下さるのだから、この方に賛美をささげようではないか!暁は夜明けですね。呼び覚まして呼び覚まされるものではありません。しかし、彼は熱望する。夜明けを呼び覚ましたい。暗黒に光が照り輝くように。国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、主にほめ歌を歌おう。賛美は溢れる。暗い困難な状況の中でさえも、神様の恵みの大きさは明らかだからです。むしろ、困難な状況でこそ、神様の力強さ、偉大さ、その救いの恵みの大きさは、明らかになるのかもしれません。平穏無事な状況は時に私たちの信仰を鈍らせます。危機に直面する時、救いの確かさ、その大きさを実感するでしょう。原子力発電所で活躍したハイパーレスキュー隊が、出動する機会のない状態が続くなら、きっと注目もせず、そのありがたみを感じないことでしょう。危機に直面する時、雲にまで及ぶ、救いの本当の大きさを知る者です。

5 神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられますように。

 それゆえに、神様の栄光が天でも地でもあがめられるように祈る者なのです。神様を知らない世界は、暗いです。死んで滅びてしまう世なら、生きる事は虚しくなります。しかし、救い主である神様の恵みは、この世界に注がれています。世界がこの神様を知り、あがめることになるように。本来のあるべき場所、神様のもとに、世界が歩むように、私たちも願うものであります。

 さて、ここからが本番です。

6 あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。

 危機的な状況を通して、確かに信仰の目が開かれる経験をするものではありますが、それは決して好ましい状況ではありません。ダビデは訴えます。「あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救って下さい。そして私に応えて下さい。」神に愛された者が、願い虚しく殺される、という現実を、ダビデは知っている人でした。ダビデの親友ヨナタンは、素晴らしい信仰の人でしたが、ペリシテ人の手にかかり、殺されました。またダビデ自身、自分の部下で、神様を愛していたウリヤを、敵の手にかけて殺されるよう仕向け、それが実現しました。彼自身が危機の中で感じるのは、自分自身が、神様に救いを願って聞いていただくような資格があるものではない、ということでしょう。しかし、同時に、神様は恵み深く、ある人を失わせ、ある人を救う、という事がある、その事実により頼みます。あなたの右の手で救って下さい。神様は救い出すことができるお方です。その神様に訴えかけるのです。

7 神は聖所から告げられた。「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。
8 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。
9 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテの上で、わたしは大声で叫ぼう。」
10 だれが私を要塞の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。

 シェケムもスコテも、神様が立てた士師ギデオンやアビメレクに逆らった町。その結果、その町は、みな滅ぼされたり、痛めつけられたりした。
 ギルアデはマナセ一族の町。エフライムとマナセはヨセフの息子達。ユダは、ダビデの出身。ダビデに味方し、エルサレムに住みついた一族。
 モアブは、アブラハムのおい、ロトから出た一族だが、このころには敵対していた。昔は、靴ではなく、サンダルを人々ははいていたので、家に帰ってくると、奴隷に足を洗わせた。神の子としてユダとヨセフ一族が表現されているのに対して、奴隷のように仕えさせる様子がわかる。また、エドムはヤコブの兄弟であるが、はきものを投げつけよう、と言う。要するに身柄を買い戻す権利を神様が持っておられる、という意味。ペリシテはイスラエルの敵。ペリシテを倒し、その上で大声で叫ぼう。敵の上に勝利をとられる主。

11 神よ。あなたは私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。
12 どうか敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。
13 神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます。

 その神様の約束にダビデはより頼む。神様が約束されたではありませんか。でもその神様が私たちを拒まれた。どうしてよいかわからないで、怖じ惑う様子。神様、どうか私たちと出陣して下さい。敵からお救い下さい。

 ダビデは神様により頼んだ。神様は彼に応えた。神様はより頼む者を決して捨てない。求める者に応えて下さる方。私たちは自分の力を望みとすることから卒業しなければならない。神様の力により頼んで、この方によって取り組む、ということを学び続けよう。

今週の私たちの戦いに、主が共に闘って下さいますように。


nice!(0)  コメント(0) 

詩篇107篇 [説教]

第五巻 詩篇107篇

1 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
2 主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、
3 彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた。

4 彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。
5 飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。
6 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。
8 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
9 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。

10 やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、
11 彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。
12 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
13 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
14 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。
15 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
16 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。
17 愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。
18 彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。
19 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。
21 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
22 彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。

23 船に乗って海に出る者、大海であきないする者、
24 彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。
25 主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。
26 彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。
27 彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。
28 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。
29 主があらしを静めると、波はないだ。
30 波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
31 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
32 また、主を民の集会であがめ、長老たちの座で、主を賛美せよ。

33 主は川を荒野に、水のわき上がる所を潤いのない地に、
34 肥沃な地を不毛の地に変えられる。その住民の悪のために。
35 主は荒野を水のある沢に、砂漠の地を水のわき上がる所に変え、
36 そこに飢えた者を住まわせる。彼らは住むべき町を堅く建て、
37 畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、豊かな実りを得る。
38 主が祝福されると、彼らは大いにふえ、主はその家畜を減らされない。

39 彼らが、しいたげとわざわいと悲しみによって、数が減り、またうなだれるとき、
40 主は君主たちをさげすみ、道なき荒れ地に彼らをさまよわせる。
41 しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、その一族を羊の群れのようにされる。
42 直ぐな人はそれを見て喜び、不正な者はすべてその口を閉じる。
43 知恵のある者はだれか。その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。

 皆さんの最大の関心事は、先日の地震であることと思います。多くの方が犠牲となり、今も困難な中にいらっしゃいます。今日、教会堂を失った状態で礼拝がささげられている所もあるでしょう。覚えてひと時祈りましょう。

 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」マタイ24:35、イエス様の言葉、聖書の御言葉にひと時、耳を傾けようではありませんか。

 詩篇の第四巻、詩篇90篇から、元旦礼拝など含め、連続して見てまいりました。1篇からは祈祷会でやっておりまして、現在34篇まできております。あと100篇ちょっと残っています…今回から5巻に入ります。

 そもそも詩篇、という言葉は、本来の言葉の意味と無関係につけられているのだそうで、もともとのヘブル語正典では、「ケスビーム」(聖文集)と呼ばれる第三区分を指すそうです。詩篇はもともと、5巻からなっていまして、数百年の間の歌が集められてできたそうです。

 1巻の冒頭、詩篇1篇では、主の教えを喜びとし、~何をしても栄える、とのんきに始まります。若い、ということはいいことです。うだうだ考えない。ストレートに神様を考える。年をとると、回り道をしたくなるものです。しかし、1篇は実にストレートです。これでいいのです。

 一巻の終わりは、41篇です。頌栄、神様に栄光を帰す事で終わります。41:13、ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。

 2巻の詩篇42篇に入りますと、谷川の流れを慕う鹿のように、の歌にあるように、作者は苦しみにさいなまれ、その中から主を慕い求める姿が浮かびます。人生はそういうものですね。真に神様を求めるようになるのは、そういうときこそ、であります。私の魂は、あなたを慕いあえぎます。

 2巻の終わり、70:18~19においても、やはり神様に栄光を帰すのです。人生の色々な悩みを通らされてなお、主権は神にあり。そう。神様は素晴らしい、そう信仰者は告白できるのです。いや、せざるを得ない、現実に導く神を体験させられるのです。

 「ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主一人、くすしいわざを行う。とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ち渡れ。アーメン。アーメン。」アーメン!

 3巻の73篇は、42篇にも似ていますが、私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、とあるように、自分の内面、自分の足りなさにも目が向けられ、その中で主が取り扱って下さって、賛美に導かれています。

 やはり3巻の終わり、89篇もシンプルな賛美で閉じられます。
「ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。」
 人間は、悩みを通して、余計なものをそぎおとされていくのですね。神様と歩む人にとって、長く歩めば、歩むほど、信仰はシンプルなものとされるのかもしれません。

 4巻、90篇は、人生のはかなさを歌っています。私たちの齢は70年。健やかであっても80年。年老いて、人生の色々な所を通らされたゆえに出てくる内容であります。その中で主に訴えかけるような祈りとなっています。

 4巻の終わりは、先週の106篇、106篇のテーマは、イスラエルの歴史でしたね。そむく人々の中で、神様は何度も裁きを下すと共に憐れみ、彼らを導かれたのでした。それゆえに、その最後も神様に賛美がささげられています。
 「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。」
とこしえ、という言葉が、この歴史を通し、実にリアルになります。

 そして5巻、詩篇の最終巻は、単なる個人的な人生の視点のみならず、歴史的な視点から描かれます。こういう人生、こういう出来事、こういう事件の中で、神様は導いて下さったではないか!主のみわざを悟れ!そのようにそれぞれの巻は始まるのです。

 5巻の最後、150篇に至っては、全体が、神の栄光に呑まれます。神をほめたたえよ!ハレルヤ!
 やがて、この世界は終わり、新しい天と地がやってくる、と聖書は預言しています。そこでは何がなされるでしょうか?礼拝です。私たちを愛し、ご自身をおささげ下さった、神様ご本人を目の前に、栄光をささげる時が来るのです。今やっているように、イマジネーションを働かせる必要はありません。誰にとっても退屈な時間でなど、あり得ません。神様の素晴らしさに誰もが息をのみ、驚き、喜びと感謝があふれ、興奮して、賛美が口をついて出てくることになるでしょう。

 私達は今、全くみすぼらしい、影のような礼拝をささげておる訳ですが、その日が来ます!私たちを愛し、人生の一切を導き、滅びではなく、命に導き入れて下さった神様が、私たちを招き入れて下さいます。だから、今日、私たちは、その方を待ち望みつつ、この時を過ごすとしましょう。

 それぞれの巻の最後は、神様に栄光を帰して終わるように、この礼拝もそこを目指しましょう。一切が神様の栄光に呑まれるように。神様を見上げましょう。神に栄光あれ!

 107篇は、105、106、と共に、主に感謝せよ、という呼びかけで始まる、ホードゥー詩篇です。105篇が、創世記のアブラハムから始まり、エジプトまで、106篇がエジプトから始まり、バビロン捕囚まで、と来まして、107篇は、その歴史を、全体図のように描いています。

 今回のキーワード:救い出された。主に感謝せよ。
 今回も長い詩篇ですが、二つのキーワードから考えましょう。繰り返して出てくる二つの言葉。

6 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
8 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

それぞれまとめの言葉として、4回繰り返し出てきます。6,13,19,28節、8,15,21,31節。

そこで4つの区分をしてみましょう。4節~9節、10~16節、17~22節、23~32節。

1.4~9、荒野の旅人
 まず荒野を行く旅人が登場します。これはモーセに率いられ、エジプトを脱出した、イスラエルの民のようです。彼らは、砂漠地帯を旅しました。その中で、数々の苦しみに遭いました。
この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
その中で神様は彼らを救い出されました。これが賛美の理由です。
彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

2.10~16、闇と死、悩みと奴隷状態の人
 闇と死の陰に座す者、悩みと鉄の枷とに縛られている者。これは私たち人間ですね。闇の力、死の陰におびえながら過ごすもの。人生は悩みが多い者です。そしてそこに繋ぎ止められていて、そこから逃れられるものはいません。彼らは、神の言葉に逆らい、いと高き方のさとしを侮った。これが罪の奴隷状態の人間の姿です。神様は苦役をもって、その民を懲らしめられました。エジプトでの奴隷生活、バビロンでの奴隷生活はそれゆえです。しかし、その中で、彼らが主に向かって叫ぶと、神様は彼らを苦悩から救い出されます。正しく裁く方ですが、同時に憐れみ深い方です。だから希望がある。だから賛美が出てくるのです。神様の御言葉には聞くべきですね。神様のさとしを受けるべきですね。

3.17~22、罪ある愚か者
自分の罪、咎は、周りにとって迷惑なだけではありません。それは自分をも悩ませます。あらゆる食物を忌み嫌うほどに、死の門にまで着くほどに、自分の罪の問題は、私達にとって深刻です。見てみないふりをしても、それはなくなりません。向き合わなければ、決して解決しません。墓場まで持っていけるとお思いでしょう。しかし、そのように、自分で解決しようとし続けている状態を、おすすめしません。自分を許せない事はありますか?いくら悔いてもなくならない胸の痛みはありますか?それは放置しない方がよいです。イエス様に打ち明けるべきです。とってもらうべきです。平気でそむき続けてはいけません。苦しみがあるなら、叫びの声をあげてください。イエス様、許して下さい!助けて下さい!イエス様は苦悩から救って下さいます。ご自分が十字架にかかって下さったので、私たちの罪を、完全に許すことができるのです。

4.23~32、船乗り、バビロン捕囚ととらえる可能性もある
この船乗りを、魚に呑みこまれた預言者ヨナを乗船させた船乗りだ、ととる人もいますし、イザヤ書の表現から、バビロンを海、イスラエルを船乗りと表現している、ととる人もいます。いずれにせよ、海の上には逃げ場はありません。嵐に巻き込まれたら、その上でひたすら揺さぶられるしかありません。自然の猛威の前で、人間は実にはかない者であります。そのような脅威を目の前にして、初めて人間は神様を求めるようになる、という事もあります。しかし、その求めは決して虚しいものではない、聖書は約束しています。神様に求める者を、神様は見捨てない。神様により頼むものを、神様は決して捨てない。この苦しみの時に、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。神様は自然の猛威までも沈められる方です。神様は彼らを望む港まで導かれます。それゆえに言うのです。
「彼らは、主の恵みと、人の子らへのくすしいわざを主に感謝せよ!」

33~38、主権者であられる主
続く節も興味深いですね。

33「主は、川を荒野に、水の湧きあがる所を潤いのない地に、肥沃な地を不毛の地に変えられる。その住民の悪のために。」
しかし、反対に、
35「主は荒野を水のある沢に、砂漠の地を水の湧きあがる所に変え、そこに飢えた者を住まわせる。」

 あまのじゃくみたいな方ですね。靴を左右反対に履きたがる子供のようです。しかし本当にそうなのか?いやいや、どうしてそんなことがあるでしょうか。神様ですよ。あまのじゃくなのは神様の方、ではありません。あまのじゃくは誰ですか?この私達の方なのです。反対の方向に向かって飛び出していこうとする私達を、神様は捕まえて、反対に履き直させるのです。罪によって神様にそむき、神様を恐れないで、悪を行い、自分の身を自ら滅ぼそうとする人間を、神様は憐れみ深く、正しく導こうとされているのです。

39~42、裁き主であられる主
 貧しくされた者、悩みにさいなまれた者を見捨てる事がなく、かえって、彼らをそこに追い込んだ人に責任を問われるのです。弱って痛む者を、もう一度立たせ、主の民として集め、歩ませて下さるのです。私達の主は、本当に素晴らしい方、賛美を受けるにふさわしい方ではないでしょうか?

 だから主の恵みを悟れ!何度も繰り返されてきた。次もそうなる。今まで通り、神様が導く。そこに信頼するように。

 43節「知恵のある者は誰か。その者は、これらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。」
 
 知恵のある者、とは、詩篇、箴言が繰り返し表現しているように、信仰のある者です。神様を信じ、知っている者のことを指します。自分は神様を信じている、そういう人は、主の恵みを悟れ!

 この歴史の中で、神様は今まで何度も何度も、このように導いてこられたではないか。今までもそうだったではないか。4回繰り返したら5回目もそうなるはずだ。この方を信じているはずでしょう?理性に訴えかけるのです。主の恵みを悟れ!私たちも、真摯にこの言葉を受け止めたい。果たしてこういう神様を信じて来ただろうか?信頼しているだろうか?一生懸命自分の計算により頼んでいないだろうか?神様は、私たちが自分の罪に気付き、叫びの声を上げるなら、聞いて下さるお方です。不信仰な私をお赦し下さい!信じさせて下さい!神様に期待しましょう。

nice!(0)  コメント(0) 

詩篇106篇 [説教]

1 ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
2 だれが主の大能のわざを語り、そのすべての誉れをふれ知らせることができよう。
3 幸いなことよ。さばきを守り、正義を常に行なう人々は。
4 主よ。あなたが御民を愛されるとき、私を心に留め、あなたの御救いのとき、私を顧みてください。
5 そうすれば、私はあなたに選ばれた者たちのしあわせを見、あなたの国民の喜びを喜びとし、あなたのものである民とともに、誇ることができるでしょう。
6 私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行なった。
7 私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。
8 しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。
9 主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。さながら荒野を行くように。
10 主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。
11 水は彼らの仇をおおい、そのひとりさえも残らなかった。
12 そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。
13 しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。
14 彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。
15 そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。
16 彼らが宿営でモーセをねたみ、主の聖徒、アロンをねたんだとき、
17 地は開き、ダタンをのみこみ、アビラムの仲間を包んでしまった。
18 その仲間の間で火が燃え上がり、炎が悪者どもを焼き尽くした。
19 彼らはホレブで子牛を造り、鋳物の像を拝んだ。
20 こうして彼らは彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた。
21 彼らは自分たちの救い主である神を忘れた。エジプトで大いなることをなさった方を。
22 ハムの地では奇しいわざを、葦の海のほとりでは恐ろしいわざを、行なわれた方を。
23 それゆえ、神は、「彼らを滅ぼす」と言われた。もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。
24 しかも彼らは麗しい地をさげすみ、神のみことばを信ぜず、
25 自分たちの天幕でつぶやき、主の御声を聞かなかった。
26 それゆえ、主は彼らにこう誓われた。彼らを荒野で打ち倒し、
27 その子孫を国々の中に投げ散らし、彼らをもろもろの地にまき散らそうと。
28 彼らはまた、バアル・ペオルにつき従い、死者へのいけにえを食べた。
29 こうして、その行ないによって御怒りを引き起こし、彼らの間に神罰が下った。
30 そのとき、ピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。
31 このことは、代々永遠に、彼の義と認められた。
32 彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。
33 彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。
34 彼らは、主が命じたのに、国々の民を滅ぼさず、
35 かえって、異邦の民と交わり、そのならわしにならい、
36 その偶像に仕えた。それが彼らに、わなであった。
37 彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、
38 罪のない血を流した。カナンの偶像のいけにえにした彼らの息子、娘の血。こうしてその国土は血で汚された。
39 このように彼らは、その行ないによっておのれを汚し、その行ないによって姦淫を犯した。
40 それゆえ、主の怒りは御民に向かって燃え上がり、ご自分のものである民を忌みきらわれた。
41 それで彼らを国々の手に渡し、彼らを憎む者たちが彼らを支配した。
42 敵どもは彼らをしいたげ、その力のもとに彼らは征服された。
43 主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相計って、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。
44 それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。
45 主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。
46 また、彼らを、捕らえ移したすべての者たちから、彼らがあわれまれるようにされた。
47 私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。
48 ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。


1節~賛美

4節~顧みて下さい

6節、自分達が罪深い先祖達の延長上に

7節~出エジプトの恵み

13節~荒野での反逆

23節、モーセのとりなしと主の憐れみ

24節~さらなる反逆

30節~ピネハスの仲立ち

32節~民の反逆とモーセの失敗

34節~約束の地における反逆

40節~イスラエルの滅亡、バビロン捕囚

44節~捕囚の地での主の憐れみ

47節~主の救いを願う

 歌っているのはたぶんバビロン捕囚の時期か、帰国した時。モーセの時代B.C.1200年くらいのことを、B.C.600年くらいの人が歌っている。私たちから見ると、モーセもバビロン捕囚も、大して変わらない過去の出来事として片づけてしまいがちだが、この作者と、先祖の時代には、600年以上もの開きがある。しかし、彼は、600年以上も前の先祖の罪を引き合いに出して、それにも関わらず赦しを注がれた神様に、恵みを注いで下さるように訴えている。現代に生きる自分達も、同じ神様が、恵みを注いで下さるように訴えることができる。

この作者は、聖書のモーセの延長に生きている。聖書に登場する人々は皆、そのように生きている。新約聖書においても、ダビデやアブラハムの信仰の子孫として、その延長を生きている。その開きは1000年、1600年となる。

永遠の神様から見たら、600年も1000年も2000年も大して変わらない。私たちは、新約聖書の時代から2000年後の者だが、この延長に生きている感覚はあるだろうか。私たちは、この聖書の人々の信仰による子孫として、同じ神様の前に生かされている。同じ聖書を神の言葉としてそのまま信じ、聖書の出来事は、歴史的な事実である、と信じている。聖書の神は今も生きておられ、私たちを、聖書に登場する人々と同じく、救いを全うさせて下さる方、として、期待している。

であれば、この延長上に私たちは生きるべき。関係のない昔の神話や出来事であるかのように、聞き流すのではなく、私たちも同じ態度をもって、神様に期待するものであるように。

5 そうすれば、私はあなたに選ばれた者たちのしあわせを見、あなたの国民の喜びを喜びとし、あなたのものである民とともに、誇ることができるでしょう。
6 私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行なった。

 5節~6節にあるように、あなたの国民の喜びを喜びとし、あなたのものである民と共に、誇ることができるように。私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行った、と、同じ裁きをなさる神様の前で、同じ基準を受け入れて、悔い改めるものであるように。

 この詩篇もハレルヤ詩篇と呼ばれています。ハレルヤ!意味は、主を賛美します!で始まる詩篇で、最後も「ハレルヤ!」で終わります。106篇も105篇に続き、賛美で始まり、賛美で終わる。間に挟まれているものは、その理由。105篇が、1600年創世記から1200年位の出エジプト記に至るまでであるのに対し、106篇はそれ以降、1200年出エジプト記から600年位のダビデ王朝の最後までが主題となっている。そしてそのテーマは、105篇が、主の救いにフォーカスしたものであるのに対し、106篇は、先祖の罪に対しての神様の赦しと憐れみにフォーカスがあてられている。主の赦しと真実。それは、今ある現実で、私たちもそこに生きているのだ!

 歴史は主の言葉通りになっている。民の反逆に裁きをつける方。しかし、同時に憐れんで下さる方。

4節、主よ。あなたが御民を愛されるとき、私を心に留め、あなたの御救いのとき、私を顧みてください。

 この作者は、神様に憐れみを請うている。自分もこの延長からはみ出してしまう事がないように。私をも顧みて下さい!

 どちらかというと、延長でないかのように思いたくなる。自分が中心になって、歴史とは切り離して存在しているかのように考えようとする。このはかない数年の出来事が自分の人生のメインテーマになってしまい、この長い歴史全体を導かれた神様に期待を置かなくなる。しかし、この聖書は、何千年の歴史を通して変わることのない神の言葉として存在している。そして、神様ご自身を人々に指示してきた。だから過ぎ去ってなくなっていくトレンドを、自分の人生の基礎に置くことがないように。5年、10年で消えていく声に、支配される事がないように。歴史を通して、人々を真理に導き続けておられる、今も生きておられる神様に、耳を傾けるように。

 信仰は、この信仰者と同じように、歴史の信仰者の延長上に生きるようにさせる。歴史に裁きをつけてこられた神様の御前に生きるようにさせる。その方向に行かなかったとしたら、根本的な信仰の問題があるので、ご相談下さい。聖書の神様は今も生きておられる。だから同じことを期待しよう。同じように歩もう。同じように、神様と共に生きよう、とされる。

6節、自分達が罪深い先祖達の延長上に
6 私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行なった。

 まず彼は、自分の先祖から続く、同じような罪を認める。神様を認める、ということは、自分の罪を認める、ということになります。聖なる、正しい、正義の審判者を認めるなら、必然的に自分の罪が見えてくるからです。自分の罪が見えてくるなら、それがつい最近の単純なことではないことも、すぐ明らかになるでしょう。先祖から続いている。まず自分の罪を認めるなら、神様の救いと恵みは、はっきりと明らかになります。

 7節~出エジプトの恵み
 イスラエルの先祖、また私たちの信仰の先祖達は、たくさんの恵みを受けながら、神様に逆らい続けました。出エジプト記を見るなら、わかりますが、それは本当にひどい逆らい方でした。しかし、神様は、憐れみ深く、彼らを赦し、彼らを救い、彼らを導かれました。その中で彼らの信仰は取り扱われ、みことばを信じるようにされ、主への賛美を歌うようにされました。

 13節~荒野での反逆
 しかし、それもつかのま、すぐにみわざを忘れ、神様のさとし、御言葉を待ち望まず、また逆らったのです。神様は、憐れみ深いと共に、かたくなな民には、裁きをつける方です。聖書を読むと、イスラエル人の外の人々に対しても、聖絶せよ、とか、正しかったお方ですが、同時に中の人々に対しても、正しく裁きを行われたお方でした。割引があるわけではありません。恵みを受けてなお、悔い改めない人々には、厳しい裁きがありました。彼らは神様を拝みながら、勝手に作った偶像を拝みました。あれほどの恵みを受けておきながら、本当の神様よりも、周りの国民を恐れ、自分にとって都合のいい道を選んだのです。神様は優しい、という所に、つけあがって、恵みをあだで返すようなまねをしたのです。

 23節、モーセのとりなしと主の憐れみ
 神様は、その中で、「彼らを滅ぼす」と憤られました。しかし、モーセは、彼らのためとりなしをし、全て滅ぼされることにはなりませんでした。

 24節~さらなる反逆
 次に彼らは、エジプトを脱出し、約束の地に向かう途上、約束の地に行くのが嫌になりました。神様の御言葉を信じないで、文句ばかりいうようになったのです。そして、周りの国民に従い、バアル・ペオルという偶像にささげる礼拝につきあうようになり、死者へのいけにえを食べるようになりました。本当の生きておられる神に導かれてきたのに、死んでいる神、実際には存在しない神にいけにえをささげ、そこにあずかるようになったのです。神様はそれを忌み嫌い、神罰がくだりました。

 30節~ピネハスの仲立ち
 しかし、その時も、ピネハスというアロンの孫が執り成しをし、神様は憐れんで下さいました。

 32節~民の反逆とモーセの失敗
 さらに彼らは、メリバの水のほとりで主を怒らせました。その時には、モーセも一緒になって神様に文句を言ったので、モーセも約束の地に入れないことになりました。

 34節~約束の地における反逆
 ようやく次世代の人々が約束の地について、暮らしが安定してくると、また彼らは神様を捨てて、周りの人々に合わせるようになり、その堕落度は、本当にひどいものとなりました。自分達の息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげるようにまでなりました。考えられない事ですが、しかし、これが約束の民の延長上で起こったのです。それは、その前の世代、その前の世代から、だんだんと現れてきた兆候であり、事実、彼らはそこに生きることをいといもしなかったのです。

 40節~イスラエルの滅亡、バビロン捕囚
 その結果、彼らは滅ぼされました。神様は裁きを行う方です。彼らは征服され、苦しめられるようになります。

 44節~捕囚の地での主の憐れみ
 それでも神様は、なおも彼らを憐れもうとします。彼らが叫び、苦しむ時、神様はなおも憐れみをかけ、周りの人々が彼らを憐れむようにされました。事実後に、彼らは自分の国の再建まで許されるようになります。

 47節~主の救いを願う
それゆえにこの作者は、この神様に請い願います。主よ。私たちをお救い下さい。罪ある私たちは、どこからどう悔い改めてやり直したらよいか、わからないほどであります。しかし、だからこそ、だからこそ、イエス様が救い主として来て下さり、私たちのために、命までもお与え下さったのです。

私たちがこれらの信仰による子孫として、歩めますように。
nice!(0)  コメント(0) 

詩篇105篇 [説教]

詩篇105篇 「主の御教えのために」

1 主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。

2 主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
3 主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。
4 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
5 主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。
6 主のしもべアブラハムのすえよ。主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。

7 この方こそ、われらの神、主。そのさばきは全地にわたる。
8 主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。
9 その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。

10 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。
11 そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」

12 そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。
13 彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。
14 しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。
15 「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」

16 こうして主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。
17 主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
18 彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中に入った。
19 彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
20 王は人をやってヨセフを解放し、国々の民の支配者が、彼を自由にした。
21 王はヨセフを自分の家のかしらとし、自分の全財産の支配者とした。
22 これはヨセフが意のままに王の高官を縛り、王の長老たちに知恵を与えるためだった。
23 イスラエルもエジプトに行き、ヤコブはハムの地に寄留した。
24 主はその民を大いにふやし、彼らの敵よりも強くされた。

25 主は人々の心を変えて、御民を憎ませ、彼らに主のしもべたちを、ずるくあしらわせた。
26 主は、そのしもべモーセと、主が選んだアロンを遣わされた。
27 彼らは人々の間で、主の数々のしるしを行ない、ハムの地で、もろもろの奇蹟を行なった。
28 主はやみを送って、暗くされた。彼らは主のことばに逆らわなかった。

29 主は人々の水を血に変わらせ、彼らの魚を死なせた。
30 彼らの地に、かえるが群がった。王族たちの奥の間にまで。
31 主が命じられると、あぶの群れが来た。ぶよが彼らの国中に入った。
32 主は雨にかえて雹を彼らに降らせ、燃える火を彼らの地に下された。
33 主は彼らのぶどうの木と、いちじくの木を打ち、彼らの国の木を砕かれた。
34 主が命じられると、いなごが来た。若いいなごで、数知れず、
35 それが彼らの国の青物を食い尽くし、彼らの地の果実を食い尽くした。
36 主は彼らの国の初子をことごとく打たれた。彼らのすべての力の初めを。

37 主は銀と金とを持たせて御民を連れ出された。その部族の中でよろける者はひとりもなかった。
38 エジプトは彼らが出たときに喜んだ。エジプトに彼らへの恐れが生じたからだ。
39 主は、雲を広げて仕切りの幕とし、夜には火を与えて照らされた。
40 民が願い求めると、主はうずらをもたらし、また、天からのパンで彼らを満ち足らわせた。

41 主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。
42 これは主が、そのしもべアブラハムへの聖なることばを、覚えておられたからである。
43 主は御民を喜びのうちに連れ出された。その選ばれた民を喜びの叫びのうちに。
44 主は、彼らに国々の地を与えられた。彼らが国々の民の労苦の実を自分の所有とするために。

45 これは、彼らが主のおきてを守り、そのみおしえを守るためである。ハレルヤ。

賛美に始まり、賛美に終わる詩篇。感謝せよ、という言葉で始まるホードゥー詩篇。(105、107、118、136)1~9節、その間にはイスラエルの歴史が描かれる。しかし、その歩みは実に弱弱しく、奇跡の連続だった。その歴史を振り返るなら、悔い改めざるを得ない、また、神様の恵みの深さに驚かざるを得ない、そういう詩篇。
神様の言葉通りに歴史が導かれてきた事、主のみわざに貫かれる。それゆえに、御言葉を積極的に守るように、命じられている。

 その中、サンドイッチのように描かれているのは、創世記のアブラハムから始まって、イサク、ヤコブ、の族長達から、ヨセフ、出エジプト記のモーセの時代に至るまで、いかに神様が力強く導いて下さったか。イスラエル建国という出来事が、いかに奇跡の連続であったか。を示している。そしてそれが、このイスラエルという国自体のアイデンティティである。その根幹は神様にある。

 旧約聖書はキリストのひな形。予兆、モデル。救いの認識も概念も全くなかった人々に、後に来られる完全なる救い主を示すため、旧約はモデルとして歴史上存在する。

 アブラハムは神様に恵みを受けた人。創世記12章から登場。神様に呼び出され、カルデヤ人の地、ウルを出発し、神様に示されるがまま、約束の地に向かった。当時を席巻した民族の中にあって、彼らは実に少数だった。各地を転々とし、追い回される、遊牧民。彼はさらに、非常に臆病だった。自分の奥さんを妹と偽って、難を逃れようとした。しかし毎回ばれてうまくいかず。神様よりも人の顔を恐れた人だった。12節にあるように、小さな群れだった。

 しかし、神様はそれにも関わらず、彼を赦し、愛し、導いた。彼は恵みのゆえに取り扱われて、自分の一人子までもささげることを惜しまなかった。これは、神が、その一人子である、イエス・キリストをも惜しまずお与えになる事、神様は死者の中から人を取り戻すことができる事を知らせるための、モデルだった。へブル11:18~19.

 アブラハムの息子イサクは、父アブラハムへの神様の祝福の約束を受け継いだにも関わらず、息子をかたより愛した。彼が偏愛した、順番からいけば祝福を第一に受け継ぐはずの長男エサウは除外され、弟ヤコブがそれを騙し取った。エサウは、法律的には守られ、自分が当然祝福を受け継ぐであろう、と奢っていた。しかし、彼は、退けられ、除外されているにも関わらず、恵みを受けたい、と求めるヤコブに、それは及んだ。ヤコブはその後、兄に命を狙われることとなり、さらには、自分が騙した分、おじのラバンに騙され、二十年もこき使われることとなる。後に兄との和解に至るが、彼の人生は色々な失敗で満ちていた。しかし、神様は彼を取り扱って、その罪の結果を味あわせ、その約束を受け継ぐにふさわしい者に訓練して下さった。先に神様の恵みを受け継ぐはずであった、イスラエル人、ではなく、祝福から除外されているはずの異邦人である私たちに恵みが及んだ。

 ヨセフはヤコブの末息子だった。ヤコブは、自分が偏愛の果てに命を狙われるような経験をしながらも、子育て失敗。自分もやはりヨセフを偏愛し、息子たちがヨセフの命を狙うように。ヨセフの見た夢は、将来兄たち、親達が、自分を拝むようになる、という夢。そのことで怒りを買ったヨセフは、11人の兄達によって、奴隷としてエジプトに売り飛ばされる。牢屋につながれ、いわれのない罪や、長い試練によって試された。家族には、死んだ者、と思われていた。しかし、神様は、その彼をエジプトの権力者にする。そして、そのヨセフを通して、彼を売り飛ばした兄弟達や、父ヤコブ、のみならず、エジプトや、当時の世界中の人々が救われることとなった。

 これはイエス・キリストの型です。私たちの罪のため売られ、苦しめられ、殺された。しかし、神様はイエス様を復活させ、信じる者は誰でも救われる、という恵みを下さった。12人の弟子というのも象徴的。当時の世界が、ヨセフの知恵によって蓄えられた食料によって救われた。しかし、イエス様は、命のパンとして、自分の命をもって、人々をお救い下さる。

 しかし、エジプトにて、ヨセフを知らない王が治めるようになると、イスラエル人は、奴隷とされ、苦しめられた。彼らの叫び声が神様に届くと、神様は救い主をお送りになった。モーセ。アロン。彼らは、イスラエルの救い主となった。イスラエル人を奴隷から解放するようにファラオに要求し、応じないと、10の災害によって国が打たれた。その結果、彼らは解放され、神様が約束された地に向かう事ができるようにされた。これもまたイエス様の型です。人間は、神様から離れた結果、罪の奴隷となっている。その下に苦しめられ、死におびえ、永遠の地獄の刑罰に震えることこそ、私たちの真の姿。しかし、そのような私たちを救うために、イエス様は来られ、私たちを罪から救って下さった。根本的な、神様から遠く離れている、という私たちのため、十字架にかかって下さり、よみがえって、私たちの主となり、私たちを導いて下さる。死と滅びの国から連れ出して下さった。

 彼らは荒野で40年過ごした。荒野で人間が男子だけで60万人も過ごして、生き残ることができるなど、現実的ではない。はい、超越的な神様が、彼らと共にいて下さり、彼らを養って下さった。だからイスラエルの国がある。だから、聖書信仰というものが存在している。雲と火が彼らを導き、照らし、彼らの食物のため、うずらやパンが降ってきた。岩から水が湧き出し、川になって流れた。男子だけで六十万人の人々が、恐ろしい荒野で養われた。

 これもキリストの型です。キリストに従う、ということも、ある意味現実的ではない。超越的な神様の助けが必要。イエス様が共にいてくださって、養って下さらなければ、私は歩む事が出来ない。しかし、神様は養って下さる。雲と火が照らすように、私たちの心を神様は照らして下さり、うずらやパンが降ってきたように、心の栄養をお与え下さり、岩から水がわき出たように、私たちのかたくなな岩のような心にも、聖霊様が住んで下さり、悔い改めに導き、溢れるいのちの水を湧きあがらせて下さいます。恐ろしい荒野のような、何もないような、ちょっとすれば死を体験するであろうような場所にあっても、神様は養って下さる。私たちの人生、色々な所を通らさせられる。試みを経験するだろう。しかし、この人々を導いた神様は、今も変わることがない。今も私たちを同じように導いて下さいます。

 自分の計算で従っていこうとすることは絶対に無理です。割にあわなすぎる。塔を立てるのに十分な費用があるか、この軍勢で相手の軍隊をやっつけることができるか、私たちは考えるべき。しかし、それははっきり言って無理。それで勝てる戦争、それで建てられるちっぽけなおもちゃの塔を、私たちは取り組もうとしている訳ではない。神様がイエス・キリストによって、本当に天国に届く塔を建てさせて下さるように。神様がイエス・キリストによって、この歴史を通じて繰り広げられている、サタンとの戦争に、勝利を得させて下さいますように。

 御名を呼び求めよ。みわざを国々に知らせよ。私たちの使命です。イエス様の恵みは、信じる者は救われるようにするのです。もう本当にグッドニュースなんです。ただでばらまかれている。皆さん安売り好きですか?たまに東急に行くと、タイムセールとかやっていて、それが買えただけで、東急に来たかいがあった、と思うものです。ちっぽけな食糧品、されど食料品で興奮するなら、ましてや、イエス様の命が、私のために支払われた。信じるだけで天国に行ける、神様が生涯心配して下さる。人生整えて下さる。これはグッドニュースなのです。人が本当に救われて、天国に行けるようになる約束なのです。

 今も、人を救う、という、そのみわざは終わっていません。神様の御言葉は実現します。約束は果たされます。だから、私たちも、この御言葉に生きる事ができるように。神様に取り扱っていただきましょう。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。