SSブログ

エペソ2:1~10 [説教]

10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

1.作品の特徴

 皆さん、好きな作品ありますか?
 私は昔、「MCエッシャー」という人が書いた絵が好きで、大学時代、部屋にいくつも飾っておきました。音楽では、「ジューダス・プリースト」というバンドが好きで、CDアルバムを全部持っていました。その他、漫画や映画、小説など、皆さんもお好きな作者がいることと思います。

 作品には、作者の特徴が出ますよね。MCエッシャーの絵は、不思議な幾何学的な雰囲気が出ています。ジューダスプリーストの曲は、ギターのハーモニーで様式美を奏でてています。作者は、時間、エネルギー、心血を注いで、作品が完成します。完成したら、作品を大事にして、大切に扱うことでしょう。

2.私たちは神の作品

 今日の箇所で、私たちは神の作品である、と言われています。創世記を見ましょう。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1:26~27

 人間は、神様によって、神様に似せて造られました。ですから、私たち人間には、神様の特徴が現れているのです。私たちは、神様に似せて作られたので、神様が人を大事に思うように、人を大事にしたい、と思う。神様に似せて作られたので、正しさ、真理を探究します。私たちは神様の形に作られたので、神様っぽさが入っているのです。

3.罪の問題

 しかし、どういう訳か、愛することや、正しいことを、自分のうちに大事に思いながらも、大事にしない心が湧き上がることがあります。頭の中では、正しいことが大事、愛が大事と思いながらも、拒む心も沸き起こります。罪によって神から離れた結果、私達の中では、本来の神様っぽさを喜ぶ心に逆らう心が沸き起こるのです。

 なぜ人は殺人や盗みや、嘘や、性的な不道徳に陥るのでしょうか。それらの罪は表面的に出てくるものにすぎません。罪の根本にある問題は、神様から離れている、ということにあります。

 私たちを大事にしてくださる神様を忘れてしまっているので、私たちは人を大事にしません。私たちに十分な恵みを下さる神様を知らないので、人に与えるよりも、自分のために少しでも奪うことを考えてしまう。神様が守ってくださることを知らないので、自分の立場を守るために、人を態度や言葉、時には暴力までも使って攻撃してしまう。神様の十分な愛を感じられないので、道ならぬ愛を追い求めてしまう。自分の真実の姿を、そのまま受け入れてはもらえない、と知っているので、嘘をついてごまかす。その罪の根底にあるものは、私たちを愛し、守ってくださっている、神様を知らない、ということにあるのです。この神様から離れて、人間が社会を築き上げてしまっているために、問題はもっと複雑になっています。

 それ以降、人間はみんなこの性質を受け継いで、神様から遠く離れて歩むようになってしまいました。罪が当たり前の世の中に、自分も罪を持って生まれ、罪を吸収して育つので、そこから出てくる生活も、罪を大いに実らせることになってしまっています。私たちを愛し、私たちを価値あるものとして下さった神様から離れてしまっているから、本当に生きるべき人生を知らない。大切にされていることを知らずに過ごしてきたから、それが普通になってしまっているのです。神様に愛され作られた、人間として本来のあるべき生き方を、まったく失ってしまっている、といえるでしょう。

4.神の憐れみ

 しかし、本来失敗作として葬り去られてもおかしくない、その私たちに対し、どういう訳か、神様は愛を示して下さいました。救い主、キリストを下さったのです。救い、というのは本当に死にそうなときに使う言葉です。私たちは、神様から離れ、罪で死んで、地獄に行くほどの、大きな問題を抱えているものです。神様が、命がけで助けなければならないほどの問題でした。この世界は人間の罪によって、滅び行く世界となってしまいました。ある意味自業自得なのですが。

 しかし、その世界に神であるお方が飛び込まれたのです。イエス様です。神である方が、自分のあり方を捨てて、私たちを救うために人間となられました。そして、私たちを救うために、命の危険も顧みず、神様に反対して歩む人間社会の中で、神様を指し示し続けたのです。だからものすごい反対を受けて、命の危険も何度もありました。それでもイエス様は、人々の救いのために、神様を指し示し続けることをやめませんでした。私たちも、自分には罪があって、地獄行きの問題児だ、と言われて、気持ちのいい人はいないですよね。当時の人もそうでした。ですから、自分を救いに来てくださったイエス様を、邪魔な存在としてみなして、十字架にかけて、殺してしまったのです。自分たちはそんなに悪くない、そんなに大きな問題はない、と思ったからです。自分を愛し、命をかけて救いに来られ、本当の救いを指し示して下さった方に、恩に仇で報いてしまいました。

 しかし、それは、私たちを救うためのご計画でした。自分のしたことを悔い改め、神様を信じて歩もうとする人を救うため、イエス様は身代わりに死んでくださったのです。何の罪もない方が、罪人の代わりに死ぬことによって、信じる罪人が、罪を赦され、救いをいただくことができる、として下さったのです。神の怒りを受けるべきわたしたちに、イエス様は、憐れみを注いで下さいました。私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪の中に死んでいた私たちを、キリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました、というのです。

 この天国シートは自分の努力で得られるものではありません。神様がただ、愛するゆえに、恵みによって与えてくださいました。自分が立派だったから、ではないのです。イエス様が立派な愛をまっとうしてくださったから、私たちはどんな人でも天国に行けるのです。

 私こそ救われるにふさわしい人間だ、などと、誰が言えるでしょうか。ふさわしくない者を、キリストによってふさわしい、と認めてくださる神様ゆえに、今日私たちはもう一度十字架を仰ぎ見、神様に感謝をささげるのです。

5.行いではなくキリストを誇りとする人生

 私は洗礼を受けて約20年経つのですが、洗礼を受けた当時、本当に自分がふさわしくない者だ、と思っていました。まあ本当にふさわしくなかったのですが。周りのクリスチャンがとても立派に見えて、自分がいかにわかっていないし、足りない者であるかと、よく思いました。

 でも逆に喜びもありました。イエス様はこんな者なのに愛して下さっている。こんなに足りないのに。だから賛美歌は、感謝をこめて、一生懸命歌いました。

 でもそれが20年も経つと、まるで自分が何か立派であるかのように考えてしまうことも多々あります。説教に対しては、批評家のようになってしまいます。奉仕で忙しくて、何のためにしているのかもよく考えないで上手にやります。何が上手なのか、ということですね。お祈りは立派な言葉は並べられるようにはなったが、形式。感謝や喜びよりも、周りの人間への不満の方が簡単に出てきます。自分が聖徒にふさわしくない、ではなく、周りの人間は聖徒にふさわしくない、となってしまいます。

 私は、今もなお、聖徒の交わりにふさわしい人間ではありません。私の心には多くの問題が今もなお深くあります。十分な熱心さも、十分な感謝も、十分な喜びも、足りない者です。これほどの愛を受けていながら、冷たい者です。知っているつもりで知らない者です。

 しかし感謝したいのは、私が十分だったから、イエス様が死んでくださったのではない、ということです。イエス様が救い主として来てくださったのは、このような罪人のためです。恵みを受けてなお、感謝に乏しい、信仰に乏しい者のためにです。それなのに愛して下さる。それなのに赦しを下さる。それなのにまた再び立たせて歩ませて下さる。だから私はまた悔い改めて、何度もやり直して、この道を歩みたいのです。行いや形式の立派さではなく、感謝と愛を持って、神様についていきたいのです。

6.神の作品として生きる。

 私たちは神様の作品です。すばらしく愛されている。一人一人、ユニークで、誰一人として同じ生涯を歩む人はいない。神様が心を、愛を注いで、造って下さった、大切な存在なのです!

 どうやって神の作品として、ふさわしい生き方ができるでしょうか。人生の説明書が必要です。神様の言葉、聖書を読みましょう。また悔い改めて祈りましょう。ふさわしく歩めるように、神様に助けてもらいましょう。

 神様は遠くないのです!毎日目を注いでくださっています。作品ですから!作品を守るのは作品自体ではありません。作者です。権利を持っている方が、守るのです。この方は、自分の命を支払って、この権利を手に入れられました。そう簡単に見捨てるはずがないでしょう?私たちの使命は、一生懸命自分を守ることではありません。作品の使命は、作品の素晴らしさをありのままに出すことです。作者の素晴らしさを、余すことなく伝えることです。自分に与えられた人生を、真理に基づいて歩むことです。私たちが栄光ある神様の作品です!神様の素晴らしさを示しましょう!

 自分を誇りとするのではなく、神様を誇りとして、この方を指し示して生きる!これが私達の使命です。愛とよい行いをもって神様に、隣人に仕えましょう。悪い道に歩むべきではないし、良いことをしたなら、ますます謙遜にへりくだって、神様がすばらしい、と神様を誇りとしましょう。神様の前に感謝をもって、今日歩みましょう!
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。