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受難日礼拝 [教会行事]

4月22日(金)は、受難日、ということで、イエス・キリストが十字架にかけられた日です。

イエス・キリストは、私たちを救うため、自分が身代わりとなって、十字架にかかって下さいました。

ということで、4月22日(金)20:00~21:00、土気チャペルにて、受難日礼拝があります。

イエス・キリストの十字架を覚えて、礼拝するひと時を持ちます。

どなたでも是非いらしてください。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
ローマ3:21~24

 宗教改革者ルターは、自分の罪の問題に悩みました。いくらがんばって立派な人になろうと思っていても、心の中にある罪の呵責がいつも彼を責め立てました。神様の前に、いくらがんばっても、自分が立派になれない、きっと自分には厳しい裁きが下されるに違いない、そう信じていました。

 しかし、彼は、聖書のローマ人への手紙を読んで、その罪深い自分のために、何の罪もない、神の子イエス・キリストが、身代わりに十字架にかかってくださった、という事を知りました。信じるだけで赦される、という事が、事実なのだ、という事を、知識だけではなく、個人的な体験として、はっきり知ることができたのです。神様が彼をお救いになったのです。

 彼の内には喜びが湧きあがりました。神様の恵みが、どれほどすごいものなのか、体験しました。何の功績もない人間が、ただ信じるだけで赦される。これが聖書の約束している救いです。イエス様が命を支払って下さった。だからもう大丈夫なのです!信じるだけで神様が義と認めて下さる、これを信仰義認、と呼びます。

 しかし、当時の教会は、というと、免罪符を売っていました。罪ある人間は正しさが十分ではない。いくら正しく歩もうとしても十分ではない。でも、お金を払えば、他の立派な聖人達の正しさを分けてあげることができるよ、というのです。罪責感に悩みぬいた彼にとって、また、イエス様の十字架の救いの完全さを体験した彼にとって、これは赦しがたい話でした。教会が金儲けのために、人の罪責感を利用し、聖書に逆らうような事を平気でやっていたのです。これに抗議して書いたのが、「95カ条の提題」で、これをきっかけとして、宗教改革が始まります。

 宗教改革は、何も宗教だけの問題にとどまりません。文化や思想、政治や芸術、職業についての考え方など、あらゆる分野に渡って、影響を与えた出来事でした。

 もうこれはどこまでもシリーズ化できるネタですが、とりあえずここまで。
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