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ダビデの決心 [説教]

「私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。」詩篇101:3

目は色々好きですね、男性はエロいものとか、女性もイケメンとか、見て飽きることがありません。それ自体が悪い訳ではありません。そのような欲は、当然の欲求であり、正しい夫婦関係の中にそれが存在するなら、それは素晴らしいものです。

しかし、それが道ならぬ道に進む時、問題が起こります。それ自体が悪いものではないにも関わらず、一線を越えると、それはその人にとって卑しいものに変わってしまいます。踏みとどまるべき限度を超えてしまうなら、家族や隣人、自分の人生を破壊してしまう、恐ろしい罪になるのです。

昨今、不倫とか、浮気とか、二股とか、珍しい言葉ではなくなりました。むしろステータスのように思われています。しかし、それは、確実に、家庭や人間関係を破壊し、自分の人生をも破壊します。悲しい事に、それが当たり前のように溢れているので、傷つく方が悪く、未熟であるかのように言う人がいるほどです。神様の目からは、それこそが大間違いで、罪であります。

しかしそれは、今現在に始まったことではなく、この詩篇が書かれた時代にも存在しました。実は、これを書いた、ダビデ自身が、まさにこの問題の渦中の人でした。

彼は、自分の家来、ウリヤの妻、バテ・シェバの入浴シーンを、王宮の屋上から見てしまいました。偶然見えてしまったなら、仕方ありません。しかし、聖書の記述からすると、どうやらじっくり見たようです。彼女自身にとっては、単なる入浴でしたが、ダビデの心と目の行為は、卑しいことでした。

それから彼は、彼女の事が気になりだし、家来に調べさせ、自宅に招き、肉体関係に入ってしまいます。さらに、それによって彼女が子供をみごもった事を知り、夫ウリヤの間にできたように見せかけるため、策略をめぐらしたのですが、失敗します。そこで、今度はウリヤを戦死するように仕向け、とうとう彼を殺してしまいました。そうしてのち、ダビデはバテ・シェバを王妃として、堂々と王宮に迎え入れます。彼は王様でしたから、国民で文句を言う人は、誰もいません。(後にダビデの息子アブシャロムの反乱に、バテ・シェバの祖父アヒトフェルが加わったのは、この事件がきっかけだったと言われます。「ユダヤ古代誌、ヨセフス」)

しかし、神様はその彼を赦しませんでした。神様は預言者をダビデに送り、あなたのやったことは死罪に値する、という事を教えます。すると彼はすぐに、神様の前にへりくだって、悔い改めの祈りをささげます。詩篇51篇は、その祈りです。この101篇の祈りは、きっとその後に書かれたものでしょう。

「私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。」詩篇101篇

当然ダビデは、この祈りをささげながら、この事件を思い起こしたでしょうし、周りも、当然、この事件を思い出したに違いありません。彼は、自分の卑しさを知っていた人でした。自分の弱さを思い知らされた人でした。しかし、なぜそんな彼が、大胆に、このように祈ることができたのでしょうか。今や、バテ・シェバ事件と共に、聖書に記され、世界中で読まれています。彼は王様でしたから、多くの国が歴史を記す中でそうするように、不都合な記述は残さなければよいように思います。私自身も、自分に不都合な黒歴史を、人には知られたくない、と思うものです。

しかし、ダビデはあえて、バテ・シェバ事件と共に、この詩篇を残しています。(神様がそのように導かれました。)それは、彼が、神様が憐れみ深い方である、罪を赦して下さる方である、人生をやり直させて下さる方である、という事を、自分の心に、人々の心に、そして後の世代の人々に、この歴史に刻みつけたかったからなのです。

「自分自身、こんな重大な立場で、こんな大きな過ちを犯した者なのに、神様は憐れみ深かった。赦して下さって、立ち直らせていただいて、今自分はここにある。だからもうそのような失敗を繰り返したくない。周りの人々にも、同じような罪の痛みを味あわせたくない。後の世代の人々にも、この神様の前に正しく歩むように伝えたい。自分の失敗が、次の人々の人生の成功となるように。そして、神様の前にふさわしく、人々が生きるようになるように。やり直させて下さった神様の前で、ふさわしく人生を歩みたい。二度と過ちに入ってしまうことがないように。心新たに、あなたに従っていきたいです。神様、どうか導いて下さい!」

これは「もう誘惑に陥らないよう気をつけます」という祈りではありません。自分の弱さ、自分の失敗を知っている人の言葉です。彼は言います。「私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。」彼は、「曲がったわざ」を、敵として認識しています。上手に付き合っている間は、まといつくのは当然です。しかし、神様の赦しと、自分の失敗の痛みを知っている彼にとって、自分の中の卑しい事を求める欲望や心は、もはや上手につきあう相手ではありません。正しく神様と共に歩もうとする自分に、人々に、戦いを挑み、滅ぼそうとする、恐ろしい相手なのだ、というのです。

彼は確かにその後の人生を、そのように歩みました。彼は自分の欲望に従って歩んだのではなく、神様に従って歩んだ人でした。神様は、彼の戦いを通して教えて下さっています。罪と上手に付き合う人生ではなく、神様と上手に付き合う人生を送るように。罪を憎み、神様の憎まれることに巻き込まれることがないように。

バテ・シェバ事件の影響は、その後のイスラエルの様子を見れば明らかです。罪の影響は、歴史を見るなら、大きいのです。国全体のモラルを揺るがし、後継者争いを引き起こし、反乱を引き起こすことになりました。その息子ソロモンは、ダビデにならって、700人の妻、300人のそばめを持ち、その結果、国を分裂させることになりました。罪の影響は、小さくありません。

 しかし、神の御計画は、計り知ることができません。そのバテ・シェバから生まれたソロモンが、イスラエルの王となり、また、イエス・キリストは、このソロモンの家系から生まれたのでした。それは、罪があってもOKです、というサインではありません。こんな罪深い人間の歴史なのに、神様は人間を見捨てなかった、という事を現わしています。

こんな不完全な、問題だらけの人間を愛し、救うために、イエス様がお生まれ下さいました。そして、私たちの罪の罰を、十字架で身代わりに受けて下さいました。悔い改める者、神様を求める者を、神様は決して捨てません。イエス様の身代わりのゆえに、悔い改める者は、誰でも救われるのです。この愛を受ける時、新しい生き方をする力をいただくことができます。神様が、どんなところからでもやり直させて下さる、その恵みを、どんな人でも体験することができるのです。

「天の父なる神様、どうか罪深い私の人生を、もう一度回復させて下さい。どうか赦しを注いで下さって、その恵みの力で、新しい歩みをすることができるように、助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」
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