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詩篇96篇 [説教]

聖書朗読:詩篇96:1~13
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。
主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。
まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。
まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。
尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。
国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。
御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。
聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。
国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」
天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。
確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。

 日曜にもたれる礼拝では、神様をたたえる賛美の歌を歌っています。伝統的な讃美歌を歌う場合もありますし、比較的最近作られたプレイズ・ソングというものを歌う場合もあります。両方歌う教会もあるでしょう。両方とも神様を讃える歌です。私たちの好き嫌いもあると思いますが、何よりも、賛美を受ける神様が、喜んでくださるといいですね。讃美歌も昔は新しい歌だったんです。

1節「新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。」

 今日の聖書箇所で、神様は、「新しい歌を主に歌え!」と、命令しています。全地よ、と、全ての地上の造られたものが、主なる神様をほめたたえるように、招かれています。そして同時に、神様の救いを喜ぶように招かれています。

 その理由は、神様が全てのものの造り主であられ、また、私たちの救い主であるからです。その恵みは、終わってしまった過去のものではありません。過去に始まって、今もなお、その中に私たちが生かされ、日々新しくいただき続けているのです。だから、「主に歌え!」と、新しい恵みを受け続けている者として、新しい感謝の心で、新しい賛美の歌を歌え!と言われているのです。

 全地の主、偉大なるお方が、救い主、親しく近いお方として、救って下さった。私たちはこの方と、今日共に歩んでいるのです。

2~3節、「主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。」

 このニュースは、私たちのうちだけにとどめておくものではありません。私たちが先に他の人々を通して恵みを受けたように、この御救いの良い知らせ、グッド・ニュース、グッド・スペル、ゴスペル、福音は、国々の人々に知らされなければなりません。イエス様によって提供された、無償の愛、無償の赦し、無償の神の子供とされる特権は、全ての人々を回復させ、全ての国々を回復させるものです。「日から日へと」、次の世代、次の人々に、知らせなければなりません。

教会や礼拝が存在するのは、今教会に来ている人のためだけではありません。次の日、次にくる人、次の世代、次の時代のために、今日私たちはあるのです。私たちは、明日来る人のために、今日も変化を起こす必要があるのです。次に来る人々が、神様の愛を知ることができるように、福音を体験することができるように。次の人が参加して理解できる礼拝にし続けていく必要があります。10年、5年、もっと短いサイクルで変わり続ける社会の中で、教会も人々に福音が届くために、変わり続けなければなりません。

4~6節、「まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。
まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。
尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。」

 まことに主は大いなる方です。次の世代と同時に考えなければならないもう一つのことは、大いなる方、主、賛美されるべきお方、全ての神々に勝る方、神様のことです。礼拝は、神様にささげられています。次の世代の人々のためである、と同時に、礼拝されるべき方、神様のため、礼拝はあります。

 ここにテンションがあります。礼拝は、礼拝に参加する人々のためである、と同時に、大いなる神様にささげるものです。神様の基準から離れては、礼拝と呼べません。ですから、聖書に従って礼拝すること、神様を中心にささげることは、動かすことのできない重要なことです。神様を中心とすることは、自分達が自分達の罪によって壊れたセンスや浅はかな計算に従って好き勝手な礼拝をささげること以上に、私たちを満たすでしょう。主をたずね求める人に、主はご自身を現してくださるお方です。この方が、奇跡のように私たちを取り扱ってくださるので、私たちは礼拝に集うのです。主は礼拝を通して、私たちを癒し、回復させてくださるでしょう。主の栄光、尊厳、力、光栄を仰ぎ見る礼拝であり続けるように。

「国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。
御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。
聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。
国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」」

 礼拝とは何か。ささげものです。神様への真のささげものとは何か。自分自身です。私たちの心です。私たち自身が神様を愛することです。お金などの財産、奉仕などで時間、謙遜に仕える、そういったものは、生き生きと神様と歩んでいたら、自動的についてくるものです。私たちは気をつけたいのは、このポイントです。神様と生き生きと歩んでいるか。神様を愛しているか。愛され、愛している人はいきいきしますよね。これが大事!「賢者の贈り物」のように、そうなると何がなくても幸せになる。

 私たちは、自分自身の命を贖ってくださった、イエス様を持っています。命がけの愛で愛してくださっているイエス様がいます。イエス様は、私たちのために、最大のささげものとして、自分自身をささげてくださいました。私たちが受けるべき罰を、ご自分が十字架にかかることよって、支払ってくださいました。この完全なささげものゆえに、私たちは自分の救いのため、何も付け足すことができません。このイエス様ゆえに、私たちには、神様からの平安が約束されているのです。多少の戦いの中にあっても、圧倒的な平和があるのです。だから、私たちは感謝をもって、自分自身の愛をもって、神様を愛するべきなのです。本当に受け取っているのなら、自動的にそのような心が生まれてくるはずなのです。

 神様はお金や奉仕が必要な方ではありません。お金や奉仕が必要なのは、この地上に存在する、組織としての教会です。そのために聖書に規定もされています。教会が存在するのは、先ほども申し上げた通り、次の世代のためです。自分達が前の世代のクリスチャンから、新しい命を受け継いでいただいたように、次の世代に、この福音をもって仕えるべきなのです。献金や奉仕があるのは、実にこのためです。次の人々が知るため。次の人々が、次の人々に、喜びをもって仕えるため、仕え続けるため、今日、私たち自身が、前の世代から受け継いだように、この救いの喜びを受け継がせなければなりません。自分が信仰生活を全うするだけなら、教会は要りません。自分のためだけに信仰を持っているとしたら、本物の信仰ではない。「神はお一人。救い主。」そういう知識は悪魔でも持ってますが、悪魔は神の栄光のために生きません。悪魔と同じ歩みをしてはいけません。私たちは、自分のために生きる必要はもうありません。キリストが私のために生きてくださった、また、今も生きてくださっているのですから、私たちこそは、キリストのために生きるべきです。

 私達はすぐに自己中心になります。もともとの罪の傾向が、私たちを引きずり落とそうとします。しかし、そこに支配されてはいません。もう一度新しい心をいただきましょう。イエス様を愛する心を持って、神様を喜ぶ心をもって、礼拝しましょう。主の前にひれ伏しましょう。神様は喜んで受け入れてくださいます。私たちは聖なるイエス様によって身を飾ります。汚れたままではなく、イエス様スーツを着なさい、と聖書ローマ13:14は教えます。正しい生き方をしなさい、というのです。

 ささげものは、私たち自身ですから、私たちは神様の前に正しく、愛を持って生きましょう。公正に裁く神様の前で、私たちは恐れをもって、自分自身をささげる歩みを目指しましょう。目指さない人は、大事なものが欠落してしまっています。もう一回やり直しましょう。

「天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。」

 神様に造られた全てのものに呼びかけます。本当にそうですね。無機物のように見える全てのものも、神様のデザインであり、森の木々もみな喜び歌おう!と招かれている。詩的な表現で、本当に歌ったら驚きますが。自然好きですか?いいですよね。神様の栄光を思い出します。しし座流星群を学生達と海に見に行った時、感動しました。強い風。真っ暗な天。砂浜。そこに輝く星。強い波の鳴りとどろく音。実にデザインされているんですね。神様の天地創造の産物です。神様のデザインの中で、私たちは生かされているのです。すごい宇宙の中、もっとすごいお方の御手の中で生かされているのです。もっとすごいお方がしかも近い、すぐそばにいらっしゃる。たまに日常の喧騒を離れて、自然の中に身を置くのもよいでしょう。自分が自分で生きているような気分になったときには、神様の前でへりくだることを学びに行くのも大事です。

「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。」

 またイエス様はもう一度来られます。今度は裁くために来られる。正義で世界を裁きます。真実を持って国々の民を裁きます。正しい、真実な裁きは、本来私ども罪人にとって恐ろしいものでしかありませんでした。しかし、イエス様の十字架の愛は、私たちを裁きの日にも絶え得るように、私たちを作り変えます。本当に救われた人は、内側から変えられていくのです。それが救われた証拠です。本当に救われた人は、正義と真実を待ち望みます。神様と共に歩む人は、イエス様を信じる人は、正義と真実に歩むようにされます。終わりの日、神と共に立つ者であるように。その日その時、神様と、顔と顔を合わせて、本当の新しい歌、賛美の声を、大きくあげることになりますように。私たち罪人の救い主、イエス様に、栄光がとこしえまでもありますように。

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