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詩篇90篇 神の人モーセの祈り [説教]

 今日の箇所は、偉大なイスラエルのリーダー、モーセと言う人が書いた歌です。

 年の初め、私たちは、この数年の反省の上に、また、数年先の計画を考えて、一年の計画を練るでしょう。しかし、大事なのはゴールです。最終的な人生のゴールを見据えなければ、適切な今年のプロセスを進む事はできません。聖書が教える人生のゴールは、老後でも、死でもありません。復活です!天国で永遠に楽しく暮らす事です!

 誰もが確実に区切りである死に近づいています。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去る、とモーセも書いています。まずモーセは、永遠の神様に目を向けています。

 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。
 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。(1~2節)

 自分達や世の中は、有限であり、移ろうものです。あてになりません。ですから、変わらない、世界を創造された、永遠の神様にまず目を向ける事は、1年を始めるにあたって、大事です。変わらない方が、私たちの基準であり、私たちを支えて下さる。だからこの変わりゆく1年を、先の見えない1年も、安心して歩むことができるのです。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」
まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。
あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。
朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。(3~6節)

 人生ははかないものです。神様からいただいた命が取り去られると、人は死んでしまいます。時間さえも生みだされた神様は、時間に縛られていません。人間はその中に縛られるもので、色々なものに流されつつ、考え方もころころ変わり、あっという間にすぎゆくものでありますが、神様は全部を見渡しておられるのです。

 「夜回りのひととき」は、約四時間ほどだったそうで、当時の一番短い時間の単位だったそうです。神様にとって、1,000年も4時間と変わらない、という事ですね。

まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。
あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。
まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(7~11節)

 私たちは、正義の裁き主であられる神様の前で生きているにも関わらず、自分勝手に歩んでしまうものであります。その結果、色々な痛い思いをするのですが、それでもなかなか覚えない。ただおじまどう、これが私たちの姿ではないでしょうか。私たちの隠れた罪、私たちの醜さも、神様の前に、隠れてはいません。自分達の罪をさらしたまま、生涯を終えて行くものです。本当の意味で、神様の恐ろしさを知らないのが、この人間であります。

私たちの齢は70年、健やかであっても80年。この詩篇を書いたモーセは、120年生き、生涯現役としてすごい働きを成し遂げましたが、人々の罪によって、本当に苦労した人でした。モーセは、その生涯の中で、多くの人が、神様を恐れずに悪事を重ね、神様からの正しい裁きによって、死んで行くのを目の当たりにしています。自分達の歩み方を、永遠の神様から考えて、残りの年数を正しつつ、歩まなければなりません。

 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(12節)

 小学生1年でも100位までは数えられます。大人なら1000円のおつりくらいは、ぱっと計算できるものです。特に出費がかさむ年末年始においては特に!正しく数えようとするでしょう。しかし、お金より大事な、人生の残り時間について、私たちはどれほど計算して行動しているでしょうか。

 モーセは、自分の日を正しく数える事を教えて下さい、知恵の心を得させて下さい、と、17節では、手のわざを、確かなものにして下さい、と祈っています。そうしないと、勝手気ままに歩んでしまうのです。70、80という、小学生でも数えられる数字を、間違えてしまうのです。神様を恐れる知恵の心が必要なのです。

 帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。
 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。(13~15節)

 モーセは、「帰って来て下さい」と神様に願っている。帰る(シューブ)という言葉は、悔い改めの意味も持っているそうで、モーセは神様に悔い改めを迫っている!モーセは、神様の激しい怒りと裁きに対して、思い直していただけるように、祈るのです。人間がいかにはかなく、むなしく罪深い存在であるか、憐れみ深い神様に訴えるのです。神様が祈りを聞いて下さる故です。聞いて思い直して下さる方だからです。

 放蕩息子ならぬ、放蕩神「Prodigal God」という本を、リディーマー教会のTim Keller先生は書きました。放蕩した弟を喜んで受け入れ、家に入ろうともしないお兄さんまでも連れ戻そうともする。神様は、寛大すぎる浪費家だ、というような内容でした。

 神様は厳しいお方です。と同時に、憐れみに富んでおられ、思い直して下さるお方であり、訴えかける時、応えてくださるお方なのです。恵み豊かに、私たちを取り扱って下さいます。私たちを満ち足らせて下さる。罪深い私たちを聖めるために、悩みの中を通らせますが、同時に平安の実を結ばせて下さいます。災いによって、私たちに神様に対する恐れを与えますが、神様に対する信頼を養って下さいます。楽しませて下さる方です。だから信頼できる。だから祈る。だから、期待できる。神様に期待しよう。だから私たちも祈りましょう。

あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(16~17節)
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