大会会議 [伝道師のつぶやき]
11月22~23日と、日本長老教会大会会議というのがありまして、東京の代々木オリンピックセンターというところに行ってきました。
大会会議とはなんぞや、と言いますと、おゆみ野キリスト教会は、日本長老教会という教団に所属しているのですが、その全国会議なのであります。といっても、北は埼玉、南は四国なんですが。全部で62教会あります。年に一度ありまして、各教会の牧師や長老(役員)、神学生などが集まります。主に教団全体に関わる大きなことが話し合われます。(眠・・なりま・・・)
他にも、他の教団からのごあいさつや、アメリカ長老教会や、韓国長老教会等、協力して下さっている世界の長老教会の方からのごあいさつ、世界で働いて下さっている宣教師の方々のごあいさつなど、色々あります。
毎回遠隔地からも集まりますので、宿泊施設を予約するのですが、ここ数年オリンピックセンターがとれませんで、転々としたのですが、今回久しぶりにオリンピックセンターにてもつことができました。
食事はバイキング形式で(英語でバイキングと言わないそうで、バフェ(ビュッフェ)というそうです)、好きな主食を一品選ぶと、サラダやおかず、ジュースなどはお代わり自由!これがまたおいしいのです!このために私は参加しているよう・・・なことはありま・・・
自分が6年ほど関わらせていただいてきました、礼拝式文検討委員会という委員会があるのですが、今回の大会で、一区切りつくことができました。肩の荷がおりたような感じです!!!やったー!!!
何をやっていたのかといいますと、各教会で毎週やっています、礼拝を、単に受け売りのようにやるのではなくて、もうちょっとわかりやすくしたり、研究したり、色々検討しましょう、ということで、オフィシャル礼拝プログラム参考書みたいなものを作っておりました。このたびようやく原稿を提出し、議場からもOKをいただきまして、晴れて出版に進むことができるようになったのでした。といっても、教団の牧師60人ぐらいしか使わない、非常ーーーにニッチな産物なのですが・・・委員会の皆さま、お疲れさまでした。
今回インターネットのためにLANケーブルをお借りしたのですが、返し忘れて、持って帰ってしまいました・・・アウチ!先日かばんから出てきたので、あわてて送り返しました・・・
「しかし、真の礼拝者達が霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」ヨハネ4:23~24
教会は長ーい歴史がありますから、その中で生まれた色々な良いものは、ある程度大事に引き継いでいこうとしております。しかし同時に教会は、現代の一般人にとって、わかりやすくしていく努力をし続けなければ、よりわからないものを形成していく一方になってしまいます。(はい、私もそういう傾向があります・・・あ、そうですね、傾向どころではないですね、すみません・・・)特に日本においては、ただでさえ特殊な異文化ですので・・・
聖書の変わらない真実を、変わりゆく時代、変わりゆく文化の人々に、どうやって知っていただくか、絶え間ない取り組みをする、これがキリスト教会のミッションであります。キリスト教の文化的産物をある程度大事にしながらも、同時に現代のこの日本に生きる人々が、参加して理解できるような礼拝を!というのが、当委員会の狙いだった訳です。
それでも、中にいる人間は、見ているつもりで見えていない、間違いうる、というのが現実ですので、今回できあがったものも、どんどん変えていかなければいけません。人に届くように!いつもそのような熱心を持ち続ける、というのが大事ですね・・・。
教会に参加した人が、「そっか!」となってもらえるよう、神様の恵みを期待すると同時に、自分も努力していきたいと思っております。
日々後悔の連続です・・・
大会会議とはなんぞや、と言いますと、おゆみ野キリスト教会は、日本長老教会という教団に所属しているのですが、その全国会議なのであります。といっても、北は埼玉、南は四国なんですが。全部で62教会あります。年に一度ありまして、各教会の牧師や長老(役員)、神学生などが集まります。主に教団全体に関わる大きなことが話し合われます。(眠・・なりま・・・)
他にも、他の教団からのごあいさつや、アメリカ長老教会や、韓国長老教会等、協力して下さっている世界の長老教会の方からのごあいさつ、世界で働いて下さっている宣教師の方々のごあいさつなど、色々あります。
毎回遠隔地からも集まりますので、宿泊施設を予約するのですが、ここ数年オリンピックセンターがとれませんで、転々としたのですが、今回久しぶりにオリンピックセンターにてもつことができました。
食事はバイキング形式で(英語でバイキングと言わないそうで、バフェ(ビュッフェ)というそうです)、好きな主食を一品選ぶと、サラダやおかず、ジュースなどはお代わり自由!これがまたおいしいのです!このために私は参加しているよう・・・なことはありま・・・
自分が6年ほど関わらせていただいてきました、礼拝式文検討委員会という委員会があるのですが、今回の大会で、一区切りつくことができました。肩の荷がおりたような感じです!!!やったー!!!
何をやっていたのかといいますと、各教会で毎週やっています、礼拝を、単に受け売りのようにやるのではなくて、もうちょっとわかりやすくしたり、研究したり、色々検討しましょう、ということで、オフィシャル礼拝プログラム参考書みたいなものを作っておりました。このたびようやく原稿を提出し、議場からもOKをいただきまして、晴れて出版に進むことができるようになったのでした。といっても、教団の牧師60人ぐらいしか使わない、非常ーーーにニッチな産物なのですが・・・委員会の皆さま、お疲れさまでした。
今回インターネットのためにLANケーブルをお借りしたのですが、返し忘れて、持って帰ってしまいました・・・アウチ!先日かばんから出てきたので、あわてて送り返しました・・・
「しかし、真の礼拝者達が霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」ヨハネ4:23~24
教会は長ーい歴史がありますから、その中で生まれた色々な良いものは、ある程度大事に引き継いでいこうとしております。しかし同時に教会は、現代の一般人にとって、わかりやすくしていく努力をし続けなければ、よりわからないものを形成していく一方になってしまいます。(はい、私もそういう傾向があります・・・あ、そうですね、傾向どころではないですね、すみません・・・)特に日本においては、ただでさえ特殊な異文化ですので・・・
聖書の変わらない真実を、変わりゆく時代、変わりゆく文化の人々に、どうやって知っていただくか、絶え間ない取り組みをする、これがキリスト教会のミッションであります。キリスト教の文化的産物をある程度大事にしながらも、同時に現代のこの日本に生きる人々が、参加して理解できるような礼拝を!というのが、当委員会の狙いだった訳です。
それでも、中にいる人間は、見ているつもりで見えていない、間違いうる、というのが現実ですので、今回できあがったものも、どんどん変えていかなければいけません。人に届くように!いつもそのような熱心を持ち続ける、というのが大事ですね・・・。
教会に参加した人が、「そっか!」となってもらえるよう、神様の恵みを期待すると同時に、自分も努力していきたいと思っております。
日々後悔の連続です・・・
Five solas [伝道師のつぶやき]
プロテスタントの宗教改革が起こったときのキャッチ・コピーが5つありまして、"five solas"(ラテン語)と呼ばれています。日本語にすると、「5つの”のみ”」という意味です。solaはsolo、たったひとつの、オンリー、という意味なのに、それが5つもあるのはなんか変な感じがしますが(笑)
マニアックな情報ですが、いっこづつご紹介します。
「聖書のみ」”Sola scriptura”
要するに「聖書に戻ろう」、ということですね。当時カトリック教会が、「教皇の言ったこと」+「聖書」が神の言葉だ、ということになりまして、教皇が言ったことが、「免罪符」等、ときに聖書に書いてあることをも越えて教えられていました。その中で、お金を払ったら天国行けるなんて聖書に書いてないぞ!となった訳です。(他にもいろいろありますがそんな雰囲気で)
神様は、聖書を通して、ご自身の事を十分伝えて下さっています。その幅の中で、聖書の教師は教えるべきであって、それに誰かが何かを付け加える、とか、減らす、なんてことはしてはいけないんですね。
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」第二テモテ3:14~16
「信仰のみ」"Sola fide"
聖書が教えているのは、信仰のみによって救われる、ということです。信仰+よい行いとか、信仰+お金とか、ではなく、ただ、イエス・キリストを救い主と信じるなら、それだけで救われる、「義」と認められる、というのです。
プロテスタントは、信じた時点で、キリストから究極的な「義」をいただく、と聖書から信じています。その恵みに感謝して罪を犯すたびに悔い改め続け、同時にすでに与えられた赦しに感謝するため、聖餐式を行います。しかし、当時のカトリックの考え方は、信じてクリスチャンになっても、罪を犯すと魂がけがれるので、聖餐式などを通して聖め続けられなければならない、としています。
「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」ローマ3:28
「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」ガラテヤ2:16
「恵みのみ」Sola gratia
神様はただ恵みによって、人間を救って下さり、導いて下さるのであって、人間の努力はそれに何か少しでも付け加えることができない、というのが、プロテスタント教会の主張です。ただ神様はご自身の恵みによって、私たちを憐れんで下さり、救って下さるのであって、人間の協力が必要なお方ではありません。クリスチャンになるとき、神様の恵みが必要だったように、クリスチャンとして歩むとき、成長に必要なのも、やはり神様の恵みなのです!自分のがんばりではなく、神様により頼んで歩むべきなのです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:8-10
「キリストのみ」Solus Christus
ただキリストによって人間は救われる、ということです。マリヤのとりなしや、聖人たちの力によりません。イエス様の十字架だけが、私たちの救いに必要なものであり、また、その恵みのうちを歩むためにも、必要なのは、人間の証しではなく、キリストご自身による、ということがプロテスタント教会の主張です。
「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒4:10~12
(ペテロが足の悪い人を癒したことで捕まったときの弁明の言葉)
「神の栄光のみ」Soli Deo gloria
人間や教会組織ではなく、ただ神様の素晴らしさだけがあがめられるように、ということです。人間の間にヒエラルキーを設ける事は、神様の栄光のみを崇めるようにはさせません。立派な人間さえも、罪があり、神様の救いが必要な、平等な人間なのです。もし正しく、立派な歩みができたとしたら、それは、神様からの恵みなのです。神様に感謝するべきであって、人間を高めるべきではありません。
バッハは自分の作曲した楽譜に、必ずこの言葉、もしくは頭文字をとってSDG、と入れたそうです。どんな立派な偉業を成し遂げた人間でも、それを誇って不遜なふるまいをしていたら、きっとみんなあきれるでしょう。その栄光は、神様に帰すべきなのです。それが偉大であればあるほど、逆に小さければ小さいほどでも、神様を恐れ、へりくだって感謝をささげるべきなのです。すべての人間は、この恵み深い神様に栄光を帰すべきなのです。
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」ローマ11:36
という訳で、さあ、皆さんもご一緒に! S! D! G!
参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Five_solas
マニアックな情報ですが、いっこづつご紹介します。
「聖書のみ」”Sola scriptura”
要するに「聖書に戻ろう」、ということですね。当時カトリック教会が、「教皇の言ったこと」+「聖書」が神の言葉だ、ということになりまして、教皇が言ったことが、「免罪符」等、ときに聖書に書いてあることをも越えて教えられていました。その中で、お金を払ったら天国行けるなんて聖書に書いてないぞ!となった訳です。(他にもいろいろありますがそんな雰囲気で)
神様は、聖書を通して、ご自身の事を十分伝えて下さっています。その幅の中で、聖書の教師は教えるべきであって、それに誰かが何かを付け加える、とか、減らす、なんてことはしてはいけないんですね。
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」第二テモテ3:14~16
「信仰のみ」"Sola fide"
聖書が教えているのは、信仰のみによって救われる、ということです。信仰+よい行いとか、信仰+お金とか、ではなく、ただ、イエス・キリストを救い主と信じるなら、それだけで救われる、「義」と認められる、というのです。
プロテスタントは、信じた時点で、キリストから究極的な「義」をいただく、と聖書から信じています。その恵みに感謝して罪を犯すたびに悔い改め続け、同時にすでに与えられた赦しに感謝するため、聖餐式を行います。しかし、当時のカトリックの考え方は、信じてクリスチャンになっても、罪を犯すと魂がけがれるので、聖餐式などを通して聖め続けられなければならない、としています。
「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」ローマ3:28
「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」ガラテヤ2:16
「恵みのみ」Sola gratia
神様はただ恵みによって、人間を救って下さり、導いて下さるのであって、人間の努力はそれに何か少しでも付け加えることができない、というのが、プロテスタント教会の主張です。ただ神様はご自身の恵みによって、私たちを憐れんで下さり、救って下さるのであって、人間の協力が必要なお方ではありません。クリスチャンになるとき、神様の恵みが必要だったように、クリスチャンとして歩むとき、成長に必要なのも、やはり神様の恵みなのです!自分のがんばりではなく、神様により頼んで歩むべきなのです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:8-10
「キリストのみ」Solus Christus
ただキリストによって人間は救われる、ということです。マリヤのとりなしや、聖人たちの力によりません。イエス様の十字架だけが、私たちの救いに必要なものであり、また、その恵みのうちを歩むためにも、必要なのは、人間の証しではなく、キリストご自身による、ということがプロテスタント教会の主張です。
「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒4:10~12
(ペテロが足の悪い人を癒したことで捕まったときの弁明の言葉)
「神の栄光のみ」Soli Deo gloria
人間や教会組織ではなく、ただ神様の素晴らしさだけがあがめられるように、ということです。人間の間にヒエラルキーを設ける事は、神様の栄光のみを崇めるようにはさせません。立派な人間さえも、罪があり、神様の救いが必要な、平等な人間なのです。もし正しく、立派な歩みができたとしたら、それは、神様からの恵みなのです。神様に感謝するべきであって、人間を高めるべきではありません。
バッハは自分の作曲した楽譜に、必ずこの言葉、もしくは頭文字をとってSDG、と入れたそうです。どんな立派な偉業を成し遂げた人間でも、それを誇って不遜なふるまいをしていたら、きっとみんなあきれるでしょう。その栄光は、神様に帰すべきなのです。それが偉大であればあるほど、逆に小さければ小さいほどでも、神様を恐れ、へりくだって感謝をささげるべきなのです。すべての人間は、この恵み深い神様に栄光を帰すべきなのです。
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」ローマ11:36
という訳で、さあ、皆さんもご一緒に! S! D! G!
参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Five_solas
23000アクセス感謝! [伝道師のつぶやき]
皆さまのご愛顧をいただきまして、23000アクセスを突破しました。ありがとうございます!
最近忙しさに負けて放置気味になってしまいましたが、これからもだらだらと、かつアグレッシブにやっていきたく思っております!よろしくお願いします!
私どもが所属しております日本長老教会には、「教師試験」というものがありまして、これは、牧師になるための資格試験のようなものです。本来伝道師の資格をとって数年たったらすぐ受けないといけないのですが、私、現在13年目にしてようやく受けているのでした。
先日受けた聖書神学、組織神学、歴史神学、実践神学の4科目の試験に対し、本日講評、というものがありまして、一科目は一応合格、ということだったのですが、残り三科目はだめだったようで、12月末までに再提出・・(泣)
甘かった・・・あとは論文の課題が出まして、まだまだかかりそうな雰囲気です・・・
まあとりあえずこのプロセスに入ることができた、ということで、まず神様に感謝したいと思います。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」詩篇139篇
神様を知ることは人間にとって難しいですが、神様が私を、自分で自分を知っている以上に知っておられる、良い部分も、醜い部分も、知った上で、愛して下さっている、ということは、安心します・・・人生委ねられるって幸せですよ。
クリスマスのチラシのために書いたイラストもついでにアップしときます。(たぶんボツにされる予定)ご利用ください。(使える場面があるならば)
2017年10月19日追記
22000アクセス突破! [伝道師のつぶやき]
しばらく忙しくしておりまして、長らく放置してしまいました・・・先日ようやく教師試験(牧師になるための試験)を受けてきました。明日もギリシア語の試験があり、来週あたまは日本の長老教会全体の会議、27日には教師試験の講評、そしてキリスト教会一大イベントのクリスマスと、油断できない毎日を過ごしております・・・
本来教師試験は、伝道師になって数年したらすぐ受けなければならないのですが、自分はだいぶ放置してしまいました。97年に神学生としておゆみ野教会に来て、98年からインターン・伝道師として、働き始めたので、気づくとあっという間に十数年も経っておりました・・・
当時のおゆみ野教会の様子をちょっとご紹介したいと思います。
自分が神学生で来た頃は、おゆみ野教会はまだおゆみ野チャペルしかありませんで、宣教師館であるおゆみ野チャペルを会堂として使っていました。今はだいぶ少なくなってしまったのですが、当時、大量のアメリカ人宣教師達とその家族がいて、ここは日本のアメリカ村だ、という印象を受けたものでした・・・
その時にはアイバーソン牧師がアメリカに帰国しており、代理でいらっしゃっていた方もばたばたとおやめになり、あわただしかったことを覚えています。土曜には子供会や週報づくり、イベントがあり、よく信徒の方のお宅やチャペルに泊まらせていただきました。自動的に教会学校の責任者になりまして、長らくかかわらせていただきました。現海浜幕張めぐみ教会の廣橋義信先生には、当時から本当にお世話になりました。
そうこうしているうちにアイバーソン牧師が日本に戻りまして、ごちゃごちゃしているうちにインターンとして迎えていただけることになり、おゆみ野教会での働きが始まりました。いろいろな研修にも参加させていただき、そこで学んだことは、今も役に立っています。引き続き教会学校や、教会の小グループのリーダー研修、礼拝説教や奉仕、洗礼準備クラスなど、いろいろな経験をさせていただきました。(丸投げ・・・?)
当時一緒にスタッフとして奉仕した、近藤幸子姉や飯島絵里姉には、本当にあらゆる面で支えられてきました。そうこうするうちにアイバーソン師は再びアメリカに一時帰国することになり、自分はフルタイムの教会伝道師として奉仕するようになり、現在に至っております。牧師不在の一年も守られ、それから出立さんがインターンとして加わり、それ以前から祈ってきた土気で教会をつくる話も進み、そうこうしているうちに、今日に至りました。
母体であるおゆみ野教会も、誉田チャペル建設の話がすすみ、広大な土地が与えられ、丸美建設さんの尽力により、立派な会堂を立てることができました。母体の礼拝はそこに移りましたが、教会学校の子供たちは、どう考えても通うことはできませんし、おゆみ野チャペルも開いている状況でしたので、教会学校の先生たちは、そこで教会学校を継続して下さいました。そこから、父兄の方々のためにも、ということで、宣教師達の協力もあり、礼拝も始められることになり、こうしておゆみ野チャペルでの、もうひとつの礼拝が生まれました。現在、出立さんがおゆみ野会衆の牧師として奉仕しています。
このような形で、現在おゆみ野教会は、3つの会衆、一つの教会として、3か所で礼拝や教会学校などの活動を展開しております。神様がそれぞれの場所で不思議な導きを与え、驚くような方法で導いて下さいました。これからもきっと、そうなるでしょう。この次は大網や千葉方面に拡大していければ、と夢を描いております。
救い主イエス様の恵みが、ますますこの地域にあふれますように!
「天にまします私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目を御許しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」マタイ6:9~13
20000アクセス感謝! [伝道師のつぶやき]
今日の悩み [伝道師のつぶやき]
お昼ごはんに食べた、インスタント・ラーメンのふたに、こんな言葉が。
「もう、インスタントとはいわせない。」
・・・・・・
これからなんていったらいいんだー!!!!
飢餓の問題に比べればどうでもいい悩みでした。
ちなみに麺職人うまかったです。
日清麺職人HP: http://www.menshokunin.jp/index.html?xadid=0008w
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いの満ちた家にまさる。」箴言17:1
18000アクセスありがとうございます! [伝道師のつぶやき]
ご愛読の皆様のおかげで、18000アクセスを迎えました。本当に感謝です!
すごく励まされております!更新ペースが若干遅くなっておりますが、気持ち新たに取り組みたいと思います。これからもよろしくお願いします!
明日から秋の小学生キャンプです。雨天の都合で、学校の運動会の延期等による若干のキャンセルはありましたが、イエス様が集めてくださった一人一人が、イエス様に出会うことになりますように!子供達も、大人達にも、イエス様がご自身の十字架の愛を現してくださいますように!メッセージするカレンさんも、神様が用いてくださいますように!自分も気持ち新たにイエス様に期待していきたいと思います。
ちなみにイエス様って十字架にかかったあと、よみがえったので、目には見えないんですが、本当にいるんですよ、皆さん!「顔を見た」っていう訳ではないんですが、(ごくたまにそういう人もいるけど)「本当に出会った!」というようなことを、体験するんですよね。だからクリスチャン続けられるんです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」マタイ7:7
天の御国を求める人に、捜す人に、たたく人に、神様は応えて下さいます!皆さん、レッツ・チャレンジ!本気で神様にお祈りしてみてください。鳥肌立つ経験をしますよ。
17000アクセス突破! [伝道師のつぶやき]
あのー、気がつくと17000アクセスを突破しておりました!っていうか18000直前・・・・
ありがとうございます!
今後もマニアックな記事とか、どうでもいい記事とか、大事な聖書のメッセージとか、書きまくりますので、是非ともよろしくお願いします!
永田
タグ:17000アクセス 突破
長らくお休みしました・・・ [伝道師のつぶやき]
ボーっとしているうちに、気がつくともう10月に!
皆様、秋の夜長、いかがお過ごしでしょうか?
すっかりブログを放置してしまいました・・・
最近怒涛の日々を送っておりましたが、ようやくひと段落しました。
怒涛の一つに、「礼拝式文」というのがあります。自分は「日本長老教会」(プロテスタントの教派の一つ)というところの伝道師をしておりますが、かれこれ6年前、そこで「礼拝式文」というものを作ろう、ということになり、なぜか自分も半強制加入させられてしまいました・・・
で、訳もわからず色々やってきましたが、とうとう自分も作らなければならないはめになり、そしてようやく!!ようやく!!次回の会議に提出するたたき台が出来上がったのでした!11月に会議がありまして、そこでめったぎられる予定です。でもとにかく出来上がりましたので、あとは野となれ、山となれ!
そもそも「礼拝式文」とは何ぞや?といいますと、手っ取り早く言うなれば、礼拝の「プログラム」でして、なんで教会の礼拝は、こんなプログラムやってんの?っていう所から始まって、これって時代遅れすぎじゃない?とか、これもうちょっと大事だよね?とか、そんなことをひたすらやっていた訳でございます。
なんでそのようなことになったかといいますと、教会の礼拝もマンネリ化する傾向がありまして、本来の意義が忘れられていく傾向があります。また、絶対的でないものを、絶対的なもののように考えて、形骸化や形式主義になっていまうことは、教会においても起こりやすいことのようです。
基本的に、礼拝は、聖書の原則に従ってプログラムはあるのですが、原則はそのままに、時代の変化と共に、変えていっていい部分はある訳です。しかし、習慣になりすぎてしまって、変えていっていい部分まで、原則であるかのように考えられてしまう傾向があります。
例をあげると、讃美歌。伝統的で素晴らしい曲がたくさんあり、土気チャペルの礼拝でも、いつも歌っています。しかし、言葉が難しい!明治・大正・昭和初期に翻訳された曲を、文語体で、いまだに、いくら意味がわからなくても、そのまま歌っているのです!「主の祈り」や「使徒信条」等も、新しい翻訳が出ているのに、文語のまま教会で祈ったり、告白したりしています・・・
まあ、それが良いって言う人がそれなりにいるので、そうなっているのですが、ますます浮世離れしすぎて、意味がわかりません・・・子供や若者には理解できず、どんどん高齢化が進む一方になってしまいます。
そして、そのような流れが神格化?されてしまうこともあり、それ以外は認めん!という人もしばしば・・・
そのような流れはちょっとおかしいぞ、ということで、古くてよいものは、良いものとして、意味がわかるように提供したり、新しい、比較的わかりやすい言葉の賛美もとりいれたりして、普通の一般人にも意味のわかる礼拝にしていきましょう、というのが課題でした。
それで、この6年、私どもの委員会は、東京グレースシティチャーチの福田先生を中心に、色々研究したり、リサーチしたり、各地で講演会を開いたり、実践したり、適用実験したり、しながら、啓蒙しつつ、伝統的なものから現代風のものまで、幅広く扱えるように準備し、ようやく提案にこぎつけたわけでございます。
で、自分が担当したのは、一番つきあげをくらうであろう、現代的礼拝のプログラム・・・解説つき。といっても、すでに色々な教会がやってきている事を紹介するだけなので、いまさら何を、というようなものなのですが、それでも幅広い教会が取り組むきっかけになったらよいなあ、と思います。まあ、実際、プログラム変えたらどうこうなるって訳でもないんですが。(実はそれが一番言いたかったりする)ということで、9月30日、っていうか10月1日までにようやく提出できました・・・
まあ、ケンケンガクガクの議論の末でも、採用されればいいんですが、こんだけやってダメだったら切ないなあ・・・まあいっか。
「こうしてあなたがたは、自分達の言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。~この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」マタイ15:6~9
伝統が大事になりすぎると危ないよー、とイエス様が教えているところです。現代の教会でも、同じ傾向があるかもしれません。伝統楽だし。
自分達の「日本長老教会」は、「長老派」とか、「改革派」と言われる流れの教会ですが、「改革派」というのは一体何を指しているのかと言いますと、「自分達は、もともと間違えやすいし、伝統などに流されやすい。だから、聖書に基づいて、自分たちを改革し続けよう」というのが根底にあります。
しかし、いつの間にか、「長老」、おじいちゃんばっかりの(そういう意味ではありませんが)教会になってしまう傾向もあるんですね・・・すごいニッチな世界なのに・・・まあ、これ自体ニッチな話題ですみません・・・ああ、だからだめなのか・・・
皆様、秋の夜長、いかがお過ごしでしょうか?
すっかりブログを放置してしまいました・・・
最近怒涛の日々を送っておりましたが、ようやくひと段落しました。
怒涛の一つに、「礼拝式文」というのがあります。自分は「日本長老教会」(プロテスタントの教派の一つ)というところの伝道師をしておりますが、かれこれ6年前、そこで「礼拝式文」というものを作ろう、ということになり、なぜか自分も半強制加入させられてしまいました・・・
で、訳もわからず色々やってきましたが、とうとう自分も作らなければならないはめになり、そしてようやく!!ようやく!!次回の会議に提出するたたき台が出来上がったのでした!11月に会議がありまして、そこでめったぎられる予定です。でもとにかく出来上がりましたので、あとは野となれ、山となれ!
そもそも「礼拝式文」とは何ぞや?といいますと、手っ取り早く言うなれば、礼拝の「プログラム」でして、なんで教会の礼拝は、こんなプログラムやってんの?っていう所から始まって、これって時代遅れすぎじゃない?とか、これもうちょっと大事だよね?とか、そんなことをひたすらやっていた訳でございます。
なんでそのようなことになったかといいますと、教会の礼拝もマンネリ化する傾向がありまして、本来の意義が忘れられていく傾向があります。また、絶対的でないものを、絶対的なもののように考えて、形骸化や形式主義になっていまうことは、教会においても起こりやすいことのようです。
基本的に、礼拝は、聖書の原則に従ってプログラムはあるのですが、原則はそのままに、時代の変化と共に、変えていっていい部分はある訳です。しかし、習慣になりすぎてしまって、変えていっていい部分まで、原則であるかのように考えられてしまう傾向があります。
例をあげると、讃美歌。伝統的で素晴らしい曲がたくさんあり、土気チャペルの礼拝でも、いつも歌っています。しかし、言葉が難しい!明治・大正・昭和初期に翻訳された曲を、文語体で、いまだに、いくら意味がわからなくても、そのまま歌っているのです!「主の祈り」や「使徒信条」等も、新しい翻訳が出ているのに、文語のまま教会で祈ったり、告白したりしています・・・
まあ、それが良いって言う人がそれなりにいるので、そうなっているのですが、ますます浮世離れしすぎて、意味がわかりません・・・子供や若者には理解できず、どんどん高齢化が進む一方になってしまいます。
そして、そのような流れが神格化?されてしまうこともあり、それ以外は認めん!という人もしばしば・・・
そのような流れはちょっとおかしいぞ、ということで、古くてよいものは、良いものとして、意味がわかるように提供したり、新しい、比較的わかりやすい言葉の賛美もとりいれたりして、普通の一般人にも意味のわかる礼拝にしていきましょう、というのが課題でした。
それで、この6年、私どもの委員会は、東京グレースシティチャーチの福田先生を中心に、色々研究したり、リサーチしたり、各地で講演会を開いたり、実践したり、適用実験したり、しながら、啓蒙しつつ、伝統的なものから現代風のものまで、幅広く扱えるように準備し、ようやく提案にこぎつけたわけでございます。
で、自分が担当したのは、一番つきあげをくらうであろう、現代的礼拝のプログラム・・・解説つき。といっても、すでに色々な教会がやってきている事を紹介するだけなので、いまさら何を、というようなものなのですが、それでも幅広い教会が取り組むきっかけになったらよいなあ、と思います。まあ、実際、プログラム変えたらどうこうなるって訳でもないんですが。(実はそれが一番言いたかったりする)ということで、9月30日、っていうか10月1日までにようやく提出できました・・・
まあ、ケンケンガクガクの議論の末でも、採用されればいいんですが、こんだけやってダメだったら切ないなあ・・・まあいっか。
「こうしてあなたがたは、自分達の言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。~この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」マタイ15:6~9
伝統が大事になりすぎると危ないよー、とイエス様が教えているところです。現代の教会でも、同じ傾向があるかもしれません。伝統楽だし。
自分達の「日本長老教会」は、「長老派」とか、「改革派」と言われる流れの教会ですが、「改革派」というのは一体何を指しているのかと言いますと、「自分達は、もともと間違えやすいし、伝統などに流されやすい。だから、聖書に基づいて、自分たちを改革し続けよう」というのが根底にあります。
しかし、いつの間にか、「長老」、おじいちゃんばっかりの(そういう意味ではありませんが)教会になってしまう傾向もあるんですね・・・すごいニッチな世界なのに・・・まあ、これ自体ニッチな話題ですみません・・・ああ、だからだめなのか・・・