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箴言15:15~17 [説教]

悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。
わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。
野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。
箴言15:15~17

 私は6年前、心がぼっきりおれて、半年ほど、自分の部屋から出られなくなりました。その時、私の母教会のある方が、南房総のホテルに部屋を用意して下さったんです。クリスマスの時期だったのですが、一人で10日程そこに滞在させてもらいました。

 たぶん私の生涯で、最もいいものを食べた、もっとも豪華なクリスマスでした。普段だったらすごくテンションがあがるような出来事なんですが、うつ状態ですから、全然あがらない。食欲もないので、部屋にいると、従業員がひっきりなしに生きてるか確認に来た。しかたなしに食堂に行ったが、食べても全くおいしいとも感じない。むしろクリスマスムードの中、自分の存在が苦痛だった。回りがクリスマスをお祝いしている中、キリスト教の伝道者である自分が全く喜べない。そんなクリスマスを経験しました。

 その一年半後、神様の恵みによってすっかり癒されたのですが、回復祝いに家族と食事に行った時は、本当においしく感じたことを覚えています。

 人間には悩みがつきものです。心傷つくことがあります。私達の弱さは、のしかかる重みに耐えきれないこともあります。そのような時には、どのような良い出来事があったとしても、喜ぶことができなくなってしまいます。どのような感謝すべきことがあっても、苦痛のようにすら感じてしまいます。

 聖書は、人間には、罪がある、と教えます。聖書が教える「罪」とは、何も犯罪や取り返しのない事故を起こしたことではありません。全ての人間が、神様を捨て、日々恵みを下さっている神様から離れて生きている状態を指しています。私達の罪は、私の病気の時のように、神様からの恵みを恵みだ、と感じさせなくします。

 神様から離れた人間は、神様、ありがとう、と感じるセンスを失っています。いくらよいものを受けても、それで満足できません。もっと欲しい、まだ足りない、という気持ちは、人により多くを要求してしまいます。その結果、争いが生まれます。お金があっても、おいしいものを食べても、満足できません。

 聖書は、私達に本当の満足を教えます。わずかな物しかなかったとしても、野菜しか食べられない日が続いたとしても、幸せだ!と感じる方法!ありがたい!と感じられる生き方!

 それは、神様を恐れ、人を愛する、ということです。

 神様を恐れる、というのは、私達の人生に計画を持っておられる方を知る、ということです。私達の人生は、意味がある。価値がある。神様は私達を愛して、救い主イエス様を下さいました。この方はご自分の命までも私達にお与え下さるほど、私達を愛して下さっています。この方の命によって、私達には永遠の天国が与えられています。

 また、この方は、不正や悪を裁く方です。色々大変なことも起こりますが、神様が知っておられる。自分も本来裁かれるべきなのに、赦してもらっている。そしたら、人を赦すことも、難しいですが多少簡単になります。

 神様がバックについている!この事実は大きいです。私達の直面していることも、この事実を知ると、小さくなります。私達は、この方にならって、愛するべきです。

また、人が誰かを愛する時、人は犠牲を犠牲だとも思いません。
最近うちの子供が、頭をけがをして救急車で運ばれたのですが、病院に何回か行かなければなりませんでしたし、お金もかかりました。でも時間がもったいない、とか、お金がもったいない、とは考えませんでした。子供の方が大事だからです。人は、人を愛する時、多少の事は気にならないものです。我慢、とさえも思いません。野菜を食べて愛し合う。ほんの少し生活のクオリティを落として、人に分けることを考えることも大切でしょう。神様の自分への大きな愛をいただく時、私達はもう少し愛することができるようにされます。

 神様に愛されている!神様がこの事実に、弱い私達をも生かして下さいますように。そして、わたしたちがこの愛を喜びとして、毎日宴会気分で、神様を恐れ、隣人を愛することができますように!
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