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イースター マタイ28:1~10 [説教]

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
マタイ28:1~10

 4月4日(日)は、イースターという、キリスト教の最大の祭りです。太陰太陽暦に基いたユダヤ教の暦に基いて、日程が毎年変わるので、非常になじみづらい祝日です。春分の日直後の満月の次の日曜日、という事で、2011年は4月24日、2012年は4月8日、2013年は3月31日、となります・・・。

 イースターは、日本語に訳すと、「復活祭」となります。イエス・キリストが復活した事を祝う日なのです。

 イエス様は、人々の罪のため、十字架にかけられ、殺されました。しかし、ご自身でも予告された通り、三日目によみがえられました。その後、たくさんの人々の目の前に何度も現われ、ご自身が生きておられる事を示されました。その後、人々の目の前で天に昇ってゆかれ、今は目には見えませんが、今も生きておられます。私たちと共にいて下さいます。人々を悔い改めに導き、イエス様を信じる人をも、ご自身がよみがえられたように、終わりの日によみがえらせて下さいます。

 私たちが希望を持つことができる根拠はここにあります。イエス・キリストは、死んで終わってしまった方ではなく、今も生きておられる。死んだ人と二度と会えないかもしれない、というような、距離ではなく、天国でまた会おう、というような遠くではありません。死の力を打ち破った、天においても、地においてもいっさいの権威が与えられている方が、世の終わりまで、あなたがたと共にいます、というすぐ近くで、私たちを導いて下さるのです。それゆえに、キリスト教会では、イエス様の復活を、最大の出来事としてお祝いしています。

 イエス様は十字架にかけられ、殺されました。十字架は、十字の木に、手足を釘で打ち付け、さらしものにする刑でした。ただ、吊るすだけだと、前のめりになって胸が圧迫され、呼吸ができなくなり、早く死んでしまうので、十字架の足元にあたる部分には、小さな木の台をつけました。それによって、釘が刺さっている足で体勢を持ち直し、呼吸を続ける事ができたそうです。ローマ兵は、彼らの死を早める事情がある時には、足の骨を折る処置をしました。

 しかし、イエス様がすでに死んでおられるのを確認したので、足の骨を折りませんでした。それは聖書の預言の実現でもありました。また、槍で突き刺す、という方法でも、さらに死亡を確かなものとしましたが、それも聖書の預言の実現でした。ローマの刑法に従って、イエス様の死刑は、確実に執行されました。

 その後、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、墓に遺体を埋葬しました。その日の日没から安息日となり、一切の仕事をしてはならなかったので、イエス様が息を引き取られた後、三時間弱で墓に納められるまでこぎつけなければなりませんでした。(ルカ23:44)きっと大急ぎで処置したはずです。ヨハネ19:31~42

 安息日があけた早朝、イエス様の弟子だった、マグダラのマリヤと、他のマリヤが、墓を見に来ました。香料と香油を用意し、持ってきた、とあります。(ルカ23:56、24:1)埋葬時に、急ぎで満足いく処置ができなかったので、しっかり埋葬するためでした。つまり、イエス様の弟子達であった彼女たちは、他の11弟子達と同様、イエス様がよみがえるなど、考えてもいなかったのです。過去の人との別れのために、亡骸の遺体処理のために、中東の気候で腐敗が進む、遺体の匂い止めのため、彼女たちは香料を携えて墓に訪れたのです。


人間は実に絶望しやすいものです。目の前の現実に、驚き、まどうものです。イエス様が三日目によみがえる、と言っておられたのに、十字架の死を目前にすると、とたんに希望を投げ捨ててしまいます。これが普通の私たち人間の姿ではないでしょうか。

 しかし、驚くべきは、イエス様。よみがえられました。こうも簡単に見捨てて逃げる、あきらめて埋葬する、絶望に支配される人間を、見捨てない。神様抜き、イエス様抜きの生活に、さっさと舞い戻ろうとしていたのに、そんな彼らを愛し、憐れんで、ご自身を現わして下さいました。こういう人間だからこそ、十字架にかかってくださったのです。

 天使は彼女達に、イエス様の復活を告げます。

 「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

 天使のメッセージはイエス様がよみがえった、という事。天使が来たのは、信じがたい事を信じさせるため。神様が信じがたいよみがえりの出来事を、ちゃんと人間が受け止める事ができるように、天使を通して、お知らせくださいました。

そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

 彼女達が喜んで、弟子達に知らせに行こうとすると、なんと、イエス様本人登場!「おはよう」!普通!十字架で死なれた方、よみがえられた方は、普通に登場!以前と同じように、身近で、生きておられる姿で、ご自身を現わして下さいました。彼女たちは近寄って、御足を抱いてイエスを拝んだ。近寄って確認した。御足を抱いた。実在。本当だー!という感じ。拝むしかありません。


すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

 ガリラヤで再会する、ガリラヤはイエス様が弟子達と活動された、拠点でした。11弟子の多くがこの地方の出身であり、数々の奇跡が行われ、そのみそばで仕えた場所でありました。裏切って逃げ出した弟子達にとっては、イエス様とでなければ、帰れない場所だったかもしれません。しかし、そのイエス様は、ついこないだまで、共に歩まれた、その場所で、再会を呼び掛けるのです。彼らがイエス様にやり直しを求めたのではありません。イエス様が彼らを、もう一度招かれたのです。

 ガリラヤで。彼らの生活の場で、生きておられるイエス様が、再会して下さる。そこでわたしに会える。あの裏切って、絶望して、恐れて、行き場もなくした弟子達に、イエス様の方から呼びかけて下さいました。

 彼らが立派だったからではない。すぐれていたからではない。無学な普通の人を召したご自身のゆえに、彼らを愛する愛のゆえに、イエス様はよみがえられ、そのメッセージを彼らに託そうとされました。彼らがもう一度、ご自身と歩むよう、招かれたのです。

 よみがえられた主は、同じように、私たちと共に生きて下さる。私たちの生活の場で、一緒に歩むように招いて下さいます。ありのままの私たちを受け入れ、生活の場に共に住んで下さいます。今も生きて、ご自身を現わして下さいます。死んで終わりではない人生に、導いて下さいます。

 だから希望がある。だから喜びがある。だから失敗しても、何度でも立ち上がる事ができる。招いて下さるイエス様がいるから大丈夫なのです。間違いを繰り返す私たち。私たちは自分自身のうちに希望を見いだせない。失敗する。間違える。罪を犯す。背く。でも、イエス様は、完全な生涯を歩まれ、ご自身の愛で私たちを覆って下さる。間違いを認めて、イエス様のところに行く人を、喜んで受け入れて下さる。希望を与えて下さる。

イエス様と再会した弟子たちは、恐れから解放されて、イエス様のために生きるようにされた。真理と愛のために生きるように。イエス様と共に生きるようにされた。

「また、キリストが全ての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」第二コリント5:15

 永遠になくなる事がない、確実な救いが与えられた。人間が覆す事ができない。人間の罪や弱さでなくなることがない。イエス様が十字架で、救いを実現し、よみがえって、私たちと共に歩んで下さる。私たちは弱い。でも神様は強い。今日、私たちは、このイエス様と共に生かされている。だからその事実の中に、喜び生きましょう。

 私たちの生活の場で、イエス様は共に歩んで下さいます。この方が今日も、私たち一人一人を励まして下さいますように。はっきりとわかるように、命をかけて愛して下さったその愛で、私たち一人一人に、ご自身を明らかに示して下さいますように。
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